第61話 路地裏のバリケードと祈らない指先
公会堂の裏口から飛び出すと、冷気が汗ばんだ肌を刺した。
表通りの喧騒は、建物の中を通って裏路地まで響いてきている。怒号、ガラスが割れる音、そして何かが倒れる重い音。
雪の上に、点々と続く足跡があった。
革靴の跡だ。慌ただしく、乱れている。
「……逃げたわね」
私は足跡を追って目を凝らした。
「金庫を持ったままじゃ、遠くへは行けないはずよ」
「車だ」
レオが顎で路地の奥をしゃくった。
「搬入口にトラックを停めている。そこに金と『聖女』以外の重要機材を積み込んで、高飛びする気だ」
私たちは走った。
路地を抜けると、公会堂の裏庭――荷捌き場に出る。
そこには、灰色の幌をかけたトラックが数台、エンジンをかけて待機していた。
白衣を脱ぎ捨て、厚手のコートに着替えた男たちが、怒鳴り合いながら木箱を荷台に投げ込んでいる。
「急げ! 暴徒が来るぞ!」
「書類は燃やせ! 金だけ持て!」
彼らの腕には、あの『蛇』の腕章が巻かれていた。
教団の幹部たち。
いや、ただの資金稼ぎ部隊の撤収作業だ。
その時、表通りから回ってきた市民の集団が、裏庭のフェンスを押し倒してなだれ込んできた。
手に手にスコップや棍棒、雪かき用の棒を持っている。
目は血走り、口元からは白い泡を飛ばして叫んでいた。
「いたぞ! ペテン師どもだ!」
「逃がすな! 俺たちの金を返せ!」
数十人の群衆が、トラックに向かって殺到する。
無秩序な怒りの波。
対する『蛇』の男たちは、動きを止めた。
彼らは慌てることなく、コートの下から無機質な金属の塊を取り出した。
短機関銃だ。
「……まずい」
レオが足を止めた。
「射線が通る」
ジャラッ。
男たちがボルトを引く音が、怒号の隙間に冷たく響いた。
市民たちは気づいていない。自分たちが飛び込もうとしているのが、ただの逃亡者の背中ではなく、訓練された殺し屋のキルゾーンであることに。
「撃て」
指揮官らしき男が、事務的に命じた。
ダダダダッ!
乾いた発砲音が、雪景色を切り裂いた。
先頭を走っていた男の足元で、雪が激しく跳ね上がる。
威嚇射撃だ。
群衆が足を止める。恐怖で悲鳴が上がる。
「次は頭だ!」
指揮官が銃口を群衆の顔の高さに向けた。
「近寄るな! 神の罰を受けたいか!」
神の罰ではない。鉛の雨だ。
市民たちは立ちすくんだ。進むことも、引くこともできない。
彼らは武器を持っていない。ただの農具や掃除用具で、自動火器に勝てるわけがない。
「……レティ」
レオが物陰に身を隠しながら、私に指示を出した。
「右の倉庫の屋根だ。雪が積もっている」
「雪崩を起こせって?」
「視界を奪えればいい。俺が合図したら、ありったけの雪を落とせ」
レオは懐から拳銃を抜いた。
あの時、工場長から奪ったものだ。弾倉の残りは少ない。
彼は群衆の方へ向かって走り出した。
私は反対側、倉庫の非常階段へと向かう。
「どけ! 素人が戦場に出るな!」
レオが群衆の最後尾にいた男の襟を掴み、強引に引き倒した。
男が雪に転がる。
レオはそのまま前に出て、横転していたドラム缶を蹴り飛ばした。
缶が転がり、射線の真ん中で止まる。
カンッ!
敵の弾丸がドラム缶を弾いた。
レオはその陰に滑り込み、銃を構える。
「誰だ!」
敵の指揮官が叫ぶ。
「邪魔をするなら殺すぞ!」
「やってみろ」
レオはドラム缶の陰から顔も出さずに言い返した。
「だが、引き金を引く前に後ろを見てみろ。お前たちの退路はもうない」
指揮官が反射的に振り返る。
何もない。
ただのハッタリだ。
だが、その一瞬の隙が命取りになる。
「今だ!」
レオの叫び声。
私は倉庫の屋根の上で、雪庇を足で踏み抜いた。
屋根に積もっていた大量の雪が、重力に従って滑り落ちる。
ドサァァッ!
白い塊が、トラックの運転席と、その周りにいた兵士たちの頭上に直撃した。
「うわっ!」
「前が見えない!」
敵兵たちが視界を奪われ、パニックになる。
その混乱を突いて、路地の向こうから新たな集団が現れた。
ボリスとダリオだ。
彼らは手ぶらではなかった。
市場から持ち出した木箱や、テーブルの天板を盾のように掲げている。
後ろには、目つきの鋭い男たちが続く。
洗脳から覚めたばかりの、二日酔いのような顔をしたゴロツキたちだ。
「よう、お祈りは済んだか?」
ボリスがパイプを噛み砕かんばかりの勢いで笑った。
「俺たちはまだだ。賽銭泥棒にお礼参りしなきゃならねえんでな」
「囲め!」
レオが指示を飛ばす。
「正面からは行くな! 左右に散開しろ! 遮蔽物を使え!」
ボリスたちが散らばる。
彼らは正規の訓練など受けていないが、街の地理と、喧嘩の呼吸は知っている。
荷物の陰、建物の角、雪の山。
ありとあらゆる障害物を利用して、ジリジリと距離を詰めていく。
敵兵が乱射する。
だが、的が絞れない。
右を狙えば左から石が飛んでくる。左を向けば、右から火炎瓶――酒場の度数高い酒に布を突っ込んだもの――が投げ込まれる。
「クソッ、ちょこまかと!」
指揮官が焦る。
「トラックを出せ! 轢き殺して構わん!」
運転手が雪を払い除け、エンジンを吹かした。
タイヤが空転する。
車体が進まない。
後輪の下に、いつの間にか鉄パイプが噛ませてある。
私が屋根に登る前に仕込んでおいた、ささやかなプレゼントだ。
「動かない! スタックしました!」
「降りて押せ! 早くしろ!」
レオがドラム缶の陰から立ち上がった。
彼は銃を構え、冷静に狙いを定めた。
人間ではない。
指揮官が手に持っている、連絡用の無線機だ。
パン。
一発。
無線機が弾け飛び、指揮官の手から落ちる。
「増援は呼べない」
レオが告げた。
「投降しろ。さもなくば、この市民たちの手で挽肉にされるぞ」
指揮官は周囲を見回した。
逃げ道はない。
トラックは動かない。
そして、包囲の輪はじわじわと狭まっている。
市民たちの目には、もう恐怖はない。あるのは、自分たちを騙し、搾取した連中への明確な復讐心だけだ。
「……神の徒がらめ」
指揮官は悪態をつき、それでも銃を捨てようとはしなかった。
「我々は選ばれた民だ。貴様らのような家畜に屈するわけには……」
彼が銃を構え直そうとした時、横合いから飛んできた煉瓦が、彼の側頭部にヒットした。
ゴッ。
投げたのは、あの乾物屋の老人だった。
震える手で、しかし渾身の力で投げた一撃。
「……うるさいんじゃ、ボケ」
老人が吐き捨てた。
「神様に祈る暇があったら、借金返せ」
指揮官がよろめく。
それが合図だった。
ボリスが、ダリオが、そして名もなき市民たちが、雪崩のように敵兵へと襲いかかった。
銃声はすぐに、殴打音と悲鳴にかき消された。
私は屋根の上からその光景を見下ろしていた。
レオはもう撃っていなかった。
彼は群衆の中に割って入り、行き過ぎた暴力を止める調整役へと回っていた。
「殺すな! 縛り上げろ!」という彼の怒声が聞こえる。
「……やれやれ」
私は屋根に積もった雪を丸め、手のひらで転がした。
冷たい。
だが、下で燃え上がっている熱気は、この雪をも溶かしてしまいそうだった。
教団の支配は終わった。
奇跡のメッキは剥がれ、ただの強欲な犯罪者集団としての正体が露見した。
あとは、後始末だけだ。
私は雪玉を放り投げ、梯子を降りた。




