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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第60話 ハウリング

 映写室の小窓から見下ろす公会堂は、巨大なすり鉢のようだった。

 底には白いローブを着た信者たちがひしめき合い、天井からは色とりどりの照明が降り注いでいる。

 熱気と二酸化炭素の濃度が高すぎて、ガラス越しでも息苦しさを感じるほどだ。


 「……特等席ね」

 私は映写機の横にある回転椅子に座り、マイクのスイッチを確認した。

 「音響よし。照明よし。あとは主役が墜落するのを待つだけ」


 レオはドアの前で腕を組み、廊下からの侵入者を警戒していた。

 足元には、すでに気絶させた映写技師と警備員が転がっている。彼らはロープで縛られ、口にはガムテープが貼られていた。

 「時間だ。司祭が出てきた」

 レオが顎でステージをしゃくった。


 ステージ中央、ドライアイスの白い煙の中から、あの司祭が現れた。

 彼は両手を広げ、劇的なポーズで信者たちを見渡す。

 マイクを通した声が、館内のスピーカーから大音量で響き渡った。


 「静粛に! これより、聖なる儀式を執り行う!」

 司祭の声に合わせ、照明が明滅する。

 「今日、聖女様は天の御使いと交信し、その肉体を重力から解き放つであろう!」


 わあぁっ、という歓声が地響きのように湧き上がる。

 単純な演出だ。だが、薬で判断力を鈍らせた群衆には、どんな安っぽい手品でも奇跡に見える。


 「……滑稽だな」

 レオが冷ややかに言った。

 「物理法則を無視できるのは、計算機の中だけだ」

 「あるいは、夢の中ね」

 私はマイクを握り直した。

 「さあ、夢から覚める時間よ」


 ステージの床が割れ、リフトが上がってきた。

 そこに立っているのは、純白のドレスを纏った聖女だ。

 背中には大きな翼の飾りがつけられ、頭上には光の輪が浮いている。

 彼女の体には、昨夜私たちが確認した細工――ワイヤーとハーネス――がしっかりと装着されていた。照明の逆光で、ピアノ線は見えなくなっている。


 聖女がゆっくりと手を上げた。

 それを合図に、地下のウインチが唸りを上げる音が、床を通して微かに伝わってくる。


 キリリリ……。

 ワイヤーが巻き上げられる。

 聖女の体が、ふわリと浮いた。


 「おお……!」

 「飛んだ! 聖女様が!」

 信者たちが涙を流して拝み始める。


 聖女は空中で静止した。

 高さは三メートルほど。神々しい光景だ。

 だが、私の耳には、彼女の悲鳴がはっきりと届いていた。


 ――痛い。

 ――脇の下が食い込む。

 ――苦しい。降ろして。


 「……レオ」

 私は振り返った。

 「そろそろよ。ウインチが限界を迎える」


 レオが頷く。

 昨夜、彼が仕込んだ「緩み」。

 一定の負荷がかかり、かつ振動が加わった瞬間に、留め具が外れる仕掛け。


 ステージでは、司祭が興奮して叫んでいた。

 「見よ! これぞ神の力! 重き肉体は魂の軽さによって……」


 バチンッ!


 乾いた破断音が、司祭の声を遮った。

 地下からの衝撃音。

 続いて、ヒュンッという風切り音と共に、聖女の体を吊っていたワイヤーの一本が跳ね上がった。


 「あっ」

 聖女の体が大きく傾いた。

 バランスを失い、さらに負荷がかかったもう一本のワイヤーの留め具も、レオの計算通りに弾け飛ぶ。


 ドサッ。


 鈍い音がして、聖女がステージに落下した。

 三メートルの高さだ。受け身も取れず、彼女は床に叩きつけられ、ドレスの裾を乱して転がった。

 背中の翼が折れ、無惨にひしゃげる。


 会場が静まり返った。

 信者たちは何が起きたのか理解できず、ポカンと口を開けている。


 「……あ、あー……」

 司祭が慌てて駆け寄ろうとする。

 「試練だ! これは神が与えた試練……!」


 「スイッチ、オン」

 私は手元のレバーを上げた。

 映写室のマイクが、館内の全スピーカーと接続される。

 

 キィィィィィン!


 強烈なハウリング音が会場を襲った。

 信者たちが一斉に耳を塞ぐ。

 司祭が驚いて立ち止まる。


 私はマイクに口を近づけた。

 自分の声ではない。

 ステージの上でうずくまり、痛みに震えている少女の「心の声」を、私が代弁する。

 声色を変える必要はない。ただ、彼女の思考をそのまま読み上げるだけでいい。


 『……痛い』


 スピーカーから流れたのは、震える少女の声だった。

 神の言葉ではない。等身大の、痛みを訴える声。


 会場がざわめく。

 「え? 聖女様?」

 「マイクが入ったままなのか?」


 司祭が顔面蒼白で舞台袖に向かって怒鳴る。

 「音を切れ! 何をしている!」

 だが、音響担当は私の足元で伸びている。切れるはずがない。


 私は続けた。

 聖女の思考は、落下のショックでタガが外れ、溢れ出していた。


 『骨が折れたかも。助けて。ママ』

 『嫌だ。もう嫌だ。こんな高いところ、怖い』

 『おじさんが言った通りにしたのに。我慢したらケーキをくれるって言ったのに』


 「な、何を……!」

 司祭が聖女の口を塞ごうとする。

 だが、聖女は口を動かしていない。うずくまって泣いているだけだ。

 声は天井のスピーカーから降ってくる。


 『薬は苦いから嫌い。注射も痛い』

 『神様なんていない。いるのは怖いおじさんたちだけ』

 『帰りたい。お家に帰りたい』


 信者たちの顔色が変わっていく。

 恍惚とした表情が消え、困惑と、そして疑念の色が広がる。

 目の前にいるのは「空を飛ぶ奇跡の聖女」ではない。

 大人たちの都合で高い所から落とされ、泣きじゃくっているただの子供だ。


 「騙された……のか?」

 最前列の男が呟いた。

 「俺たちの寄付金は? 奇跡は?」


 「違う! これは悪魔の仕業だ!」

 司祭が叫び、聖女を無理やり立たせようと腕を掴む。

 「立て! 奇跡を見せるんだ! さもないと……」


 『殴るぞって、また言うの?』

 私がスピーカー越しに代弁する。

 『地下の部屋でみたいに、鞭で叩くの?』


 その言葉が決定打だった。

 司祭の手が止まる。

 彼は周囲からの視線――数千の瞳に宿った殺意――に気づき、後ずさった。


 「お、俺は知らない! 上がやれと……」


 ガシャン!

 客席から瓶が投げ込まれた。

 「奇跡の水」の空き瓶だ。それが司祭の足元で砕ける。


 「金返せ!」

 「このペテン師!」

 「子供に何してやがる!」


 怒号が爆発した。

 一人が柵を乗り越え、ステージになだれ込む。それに続いて、群衆がせきを切ったように押し寄せた。

 「警備! 警備員!」

 司祭が悲鳴を上げ、舞台袖へ逃げ込もうとする。


 「……ショーは終わりだ」

 レオがドアを開けた。

 「撤収するぞ。暴動に巻き込まれる前に」


 私はマイクのスイッチを切った。

 プツン、という音がして、スピーカーからの声が途絶える。

 だが、もう私の代弁など必要ない。

 会場には、騙された人々の生の怒号が満ちていたからだ。


 私は窓からステージを見下ろした。

 聖女だった少女は、混乱の中で一人取り残され、呆然と座り込んでいた。

 誰も彼女を責めない。

 怒りの矛先は、彼女を利用した大人たちに向けられている。


 「……よかったわね」

 私は呟いた。

 「これで自由よ。ケーキは自分で買いなさい」


 私たちは映写室を出た。

 裏口の階段を駆け下りる。

 外に出ると、雪は止んでいた。

 公会堂の中から聞こえる破壊音と怒声を背に、私たちは静かな路地へと消えた。

 懐には、昨日の飴がまだ半分残っていた。

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