第6話 放火
鼻先をくすぐる香ばしい匂いで、私は意識を浮上させた。
目を開けると、天幕の天井が見える。キャンバス地のリネンだ。
泥の臭いもしない。悲鳴も聞こえない。
私は毛布を頭から跳ね除け、上半身を起こした。
部屋の隅にある簡易洗面台の前で、レオニスが鏡を覗き込んでいる。
彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げていた。手に持った剃刀が、顎のラインを滑る。
ジョリ、という硬い音が、静寂の中でリズムを刻んでいた。
「……おはよう。それ、私の分?」
私はストーブの上に乗ったポットを指差した。
レオニスは泡を拭き取りながら、鏡越しに私を見た。
「備品のコーヒーだ。砂糖はない」
「カフェインがあれば文句はないわ」
私は長椅子から這い出し、ポットに手を伸ばした。
昨夜の残りのマグカップに注ぐ。黒い液体が湯気を立てる。
一口飲むと、強烈な苦味が脳の血管を開いた。
レオニスが顔を洗い、タオルで拭く。
「よく眠れたようだな」
「ええ。あなたの周りは静かね。幽霊も軍規を恐れて近づかないのかしら」
「あるいは、お前の図太さに呆れて逃げたかだ」
彼はシャツのボタンを留め直し、椅子にかけてあった軍服に袖を通した。
銀のボタンを一つずつ留めていく動作は、武器の安全装置を解除する手順に似ていた。
襟を正し、ベルトを巻く。
将軍レオニスの完成だ。
「行くぞ。昨日の毒麦粉の件だ。管理責任者を洗う」
「朝食は?」
「移動しながら食え」
彼は机の上のビスケットの袋を私に投げた。
私はそれを空中で掴み、ポケットにねじ込む。
*
天幕の外に出た瞬間、音の暴力が戻ってきた。
朝の野営地は、夜よりも騒がしい。
兵士の点呼、物資を運ぶトラックのエンジン音、そして何より、この土地に染み付いた死者たちの「朝の挨拶」だ。
――寒い。起きられない。
――点呼に行かなきゃ。足がないけど。
――腹が減った。
「っ……」
私は眉間に皺を寄せ、立ち止まった。
昨夜の静寂が快適だった分、落差がきつい。二日酔いの頭で工事現場を歩いている気分だ。
私は両手で耳を塞ごうとした。
不意に、視界が暗くなった。
レオニスが私の前に立ち、風上に体を置いたのだ。
彼は無言で、私の軍用コートの襟を掴み、強引に立てた。
厚手の生地が耳を覆う。
「フードを深く被れ」
彼の声は、私のすぐ頭上で響いた。
「風の音を遮断すれば、多少はマシになるはずだ」
彼の手が、フードの紐をきゅっと絞る。
顔の半分が隠れ、視界が狭まる。
同時に、周囲のノイズが布一枚分だけ遠のいた。
レオニスの指が、一瞬だけ私の頬に触れた。体温は低いが、嫌な冷たさではない。
「……どうも」
「道具のメンテナンスだ。行くぞ」
彼はすぐに背を向け、大股で歩き出した。
私はフードの中で小さく息を吐き、彼の大きな背中の後ろ――風も音も遮られる位置――に張り付いて歩いた。
*
三番倉庫の隣にある管理棟は、急造の木造小屋だった。
中に入ると、書類の山とインクの匂いが充満していた。
だが、人の気配はない。
責任者の机と思われる場所だけが、不自然に片付いている。
「逃げたか」
レオニスが机の引き出しを開ける。空だ。
「憲兵隊の到着が遅すぎたな」
私は部屋の中を歩き回った。
ここにも死者の声はない。
あるのは、焦燥感と、隠蔽工作の気配だ。
部屋の隅に、大型のオイルヒーターが置かれている。
その上に、やかんではなく、分厚い帳簿の束が積まれていた。
違和感がある。
私はその帳簿に手を触れた。
――燃やせ。
声が聞こえた。
男の声だ。震えているが、殺意に満ちている。
――全部燃やせば、証拠は消える。毒の出所も、横領の記録も。
――十時だ。鐘が鳴ると同時に。
「……ねえ、将軍」
私は振り返った。
「今、何時?」
レオニスが懐中時計を取り出す。
「九時五十八分だ」
「あと二分」
私はヒーターを指差した。
「このヒーター、時限装置になってる。十時になったら、この部屋ごと証拠が灰になるわよ」
「何だと」
レオニスがヒーターに駆け寄る。
給油タンクの蓋が緩んでいる。そこから伸びた布切れが、ヒーターの熱源に向かって垂れ下がっていた。
単純だが、確実な発火装置だ。
そして、ヒーターの裏側には、木屑と油の染みたボロ布が詰め込まれている。
「チッ、安っぽい細工を」
レオニスが舌打ちをし、ヒーターの火を消そうとダイヤルに手を伸ばす。
「待って! 回しちゃダメ!」
私は叫んだ。
耳元で、犯人の残響が嗤ったからだ。
――回せば引火する。仕掛けたんだ。
「ダイヤルに仕掛けがある! 回すと火花が散るようになってる!」
レオニスの手が止まる。
彼は瞬時に状況を理解したらしい。
ヒーターを止めるのではなく、燃料を絶つ判断に切り替える。
彼はヒーターごと抱え上げようとしたが、底が床に固定されている。
「窓だ!」
レオニスが叫ぶ。
「そこにある帳簿を外へ放り出せ! ここは放棄する!」
私は机の上の帳簿の束を掴んだ。重い。
窓を開けようとするが、錆びついていて動かない。
「くそっ、開かない!」
私は手近な椅子を掴み、窓ガラスに叩きつけた。
ガシャン、と音がしてガラスが割れる。
冷たい風が吹き込み、垂れ下がっていた布切れが揺れた。
布の先が、赤熱したコイルに触れる。
ボッ。
小さな音がして、布に火がついた。
炎は生き物のように布を駆け上がり、油の染みたタンクへと向かう。
「伏せろ!」
レオニスが私に飛びかかってきた。
タックルされるような衝撃で、私は床に倒れ込む。
彼の硬い体が私の上に覆いかぶさる。
視界が軍服の青色で埋め尽くされた。
直後、轟音が鼓膜を叩いた。
熱風が背中を走り抜ける。
ガラス片と木片が、霰のように降り注ぐ音がした。
私はレオニスの胸元で、反射的に目を閉じた。
石鹸と、焦げた油の匂いが混ざり合って鼻をつく。
数秒の静寂。
パチパチという、何かが燃える音だけが残る。
「……生きているか」
耳元で、レオニスの低い声がした。
「たぶんね」
私は目を開けた。
「重いんだけど。どいてくれる?」
レオニスはゆっくりと体を起こした。
彼の背中には、白い灰と木屑が積もっている。
部屋の隅で、ヒーターと壁が激しく燃え上がっていた。
だが、爆風は外壁を吹き飛ばしただけで、私たちがいる場所は無事だった。
「帳簿は?」
彼が最初に気にしたのは、私の安否ではなく証拠の行方だった。
私は自分の腹の下に抱え込んでいた書類の束を引き抜いた。
端が少し焦げているが、中身は無事だ。
「ここにあるわよ。私の内臓より大事みたいだから、守っておいたわ」
レオニスは帳簿を受け取り、中身をパラパラと確認した。
「上出来だ」
彼は私を見て、口の端を少しだけ上げた。
「よく窓を割った。密閉されたままで爆発していたら、俺たちは蒸し焼きだったぞ」
「どういたしまして。追加報酬は焼肉定食でいいわよ」
私は灰だらけの髪を払いながら立ち上がった。
外から、「火事だ!」という兵士たちの叫び声が聞こえてくる。
レオニスは外套の灰を払い落とし、燃える小屋を背にして扉へ向かった。
「行くぞ。消火活動の指揮と、この帳簿の解析だ。犯人はまだ近くで、この煙を見ているはずだ」
私は彼の背中を見送った。
一瞬だけ私を庇った背中は、もう冷徹な指揮官のものに戻っている。
でも、ポケットの中のビスケットは、砕けずに残っていた。




