表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/126

第6話 放火

 鼻先をくすぐる香ばしい匂いで、私は意識を浮上させた。

 目を開けると、天幕の天井が見える。キャンバス地のリネンだ。

 泥の臭いもしない。悲鳴も聞こえない。

 私は毛布を頭から跳ね除け、上半身を起こした。


 部屋の隅にある簡易洗面台の前で、レオニスが鏡を覗き込んでいる。

 彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げていた。手に持った剃刀かみそりが、顎のラインを滑る。

 ジョリ、という硬い音が、静寂の中でリズムを刻んでいた。


 「……おはよう。それ、私の分?」

 私はストーブの上に乗ったポットを指差した。

 レオニスは泡を拭き取りながら、鏡越しに私を見た。

 「備品のコーヒーだ。砂糖はない」

 「カフェインがあれば文句はないわ」


 私は長椅子ソファから這い出し、ポットに手を伸ばした。

 昨夜の残りのマグカップに注ぐ。黒い液体が湯気を立てる。

 一口飲むと、強烈な苦味が脳の血管を開いた。

 

 レオニスが顔を洗い、タオルで拭く。

 「よく眠れたようだな」

 「ええ。あなたの周りは静かね。幽霊も軍規を恐れて近づかないのかしら」

 「あるいは、お前の図太さに呆れて逃げたかだ」


 彼はシャツのボタンを留め直し、椅子にかけてあった軍服に袖を通した。

 銀のボタンを一つずつ留めていく動作は、武器の安全装置を解除する手順に似ていた。

 襟を正し、ベルトを巻く。

 将軍レオニスの完成だ。


 「行くぞ。昨日の毒麦粉の件だ。管理責任者を洗う」

 「朝食は?」

 「移動しながら食え」

 彼は机の上のビスケットの袋を私に投げた。

 私はそれを空中で掴み、ポケットにねじ込む。


 *


 天幕の外に出た瞬間、音の暴力が戻ってきた。

 朝の野営地は、夜よりも騒がしい。

 兵士の点呼、物資を運ぶトラックのエンジン音、そして何より、この土地に染み付いた死者たちの「朝の挨拶」だ。


 ――寒い。起きられない。

 ――点呼に行かなきゃ。足がないけど。

 ――腹が減った。


 「っ……」

 私は眉間に皺を寄せ、立ち止まった。

 昨夜の静寂が快適だった分、落差がきつい。二日酔いの頭で工事現場を歩いている気分だ。

 私は両手で耳を塞ごうとした。


 不意に、視界が暗くなった。

 レオニスが私の前に立ち、風上に体を置いたのだ。

 彼は無言で、私の軍用コートの襟を掴み、強引に立てた。

 厚手の生地が耳を覆う。


 「フードを深く被れ」

 彼の声は、私のすぐ頭上で響いた。

 「風の音を遮断すれば、多少はマシになるはずだ」


 彼の手が、フードの紐をきゅっと絞る。

 顔の半分が隠れ、視界が狭まる。

 同時に、周囲のノイズが布一枚分だけ遠のいた。

 レオニスの指が、一瞬だけ私の頬に触れた。体温は低いが、嫌な冷たさではない。


 「……どうも」

 「道具のメンテナンスだ。行くぞ」

 彼はすぐに背を向け、大股で歩き出した。

 私はフードの中で小さく息を吐き、彼の大きな背中の後ろ――風も音も遮られる位置――に張り付いて歩いた。


 *


 三番倉庫の隣にある管理棟は、急造の木造小屋だった。

 中に入ると、書類の山とインクの匂いが充満していた。

 だが、人の気配はない。

 責任者の机と思われる場所だけが、不自然に片付いている。


 「逃げたか」

 レオニスが机の引き出しを開ける。空だ。

 「憲兵隊の到着が遅すぎたな」


 私は部屋の中を歩き回った。

 ここにも死者の声はない。

 あるのは、焦燥感と、隠蔽工作の気配だ。


 部屋の隅に、大型のオイルヒーターが置かれている。

 その上に、やかんではなく、分厚い帳簿の束が積まれていた。

 違和感がある。

 私はその帳簿に手を触れた。


 ――燃やせ。

 

 声が聞こえた。

 男の声だ。震えているが、殺意に満ちている。


 ――全部燃やせば、証拠は消える。毒の出所も、横領の記録も。

 ――十時だ。鐘が鳴ると同時に。


 「……ねえ、将軍」

 私は振り返った。

 「今、何時?」


 レオニスが懐中時計を取り出す。

 「九時五十八分だ」


 「あと二分」

 私はヒーターを指差した。

 「このヒーター、時限装置になってる。十時になったら、この部屋ごと証拠が灰になるわよ」


 「何だと」

 レオニスがヒーターに駆け寄る。

 給油タンクの蓋が緩んでいる。そこから伸びた布切れが、ヒーターの熱源に向かって垂れ下がっていた。

 単純だが、確実な発火装置だ。

 そして、ヒーターの裏側には、木屑と油の染みたボロ布が詰め込まれている。


 「チッ、安っぽい細工を」

 レオニスが舌打ちをし、ヒーターの火を消そうとダイヤルに手を伸ばす。


 「待って! 回しちゃダメ!」

 私は叫んだ。

 耳元で、犯人の残響がわらったからだ。


 ――回せば引火する。仕掛けたんだ。


 「ダイヤルに仕掛けがある! 回すと火花が散るようになってる!」


 レオニスの手が止まる。

 彼は瞬時に状況を理解したらしい。

 ヒーターを止めるのではなく、燃料を絶つ判断に切り替える。

 彼はヒーターごと抱え上げようとしたが、底が床に固定されている。


 「窓だ!」

 レオニスが叫ぶ。

 「そこにある帳簿を外へ放り出せ! ここは放棄する!」


 私は机の上の帳簿の束を掴んだ。重い。

 窓を開けようとするが、錆びついていて動かない。

 

 「くそっ、開かない!」

 私は手近な椅子を掴み、窓ガラスに叩きつけた。

 ガシャン、と音がしてガラスが割れる。

 冷たい風が吹き込み、垂れ下がっていた布切れが揺れた。

 布の先が、赤熱したコイルに触れる。


 ボッ。


 小さな音がして、布に火がついた。

 炎は生き物のように布を駆け上がり、油の染みたタンクへと向かう。


 「伏せろ!」


 レオニスが私に飛びかかってきた。

 タックルされるような衝撃で、私は床に倒れ込む。

 彼の硬い体が私の上に覆いかぶさる。

 視界が軍服の青色で埋め尽くされた。


 直後、轟音が鼓膜を叩いた。


 熱風が背中を走り抜ける。

 ガラス片と木片が、あられのように降り注ぐ音がした。

 私はレオニスの胸元で、反射的に目を閉じた。

 石鹸と、焦げた油の匂いが混ざり合って鼻をつく。


 数秒の静寂。

 パチパチという、何かが燃える音だけが残る。


 「……生きているか」

 耳元で、レオニスの低い声がした。

 

 「たぶんね」

 私は目を開けた。

 「重いんだけど。どいてくれる?」


 レオニスはゆっくりと体を起こした。

 彼の背中には、白い灰と木屑が積もっている。

 部屋の隅で、ヒーターと壁が激しく燃え上がっていた。

 だが、爆風は外壁を吹き飛ばしただけで、私たちがいる場所は無事だった。


 「帳簿は?」

 彼が最初に気にしたのは、私の安否ではなく証拠の行方だった。

 私は自分の腹の下に抱え込んでいた書類の束を引き抜いた。

 端が少し焦げているが、中身は無事だ。


 「ここにあるわよ。私の内臓より大事みたいだから、守っておいたわ」


 レオニスは帳簿を受け取り、中身をパラパラと確認した。

 「上出来だ」

 彼は私を見て、口の端を少しだけ上げた。

 「よく窓を割った。密閉されたままで爆発していたら、俺たちは蒸し焼きだったぞ」


 「どういたしまして。追加報酬は焼肉定食でいいわよ」

 私は灰だらけの髪を払いながら立ち上がった。


 外から、「火事だ!」という兵士たちの叫び声が聞こえてくる。

 レオニスは外套の灰を払い落とし、燃える小屋を背にして扉へ向かった。

 

 「行くぞ。消火活動の指揮と、この帳簿の解析だ。犯人はまだ近くで、この煙を見ているはずだ」


 私は彼の背中を見送った。

 一瞬だけ私を庇った背中は、もう冷徹な指揮官のものに戻っている。

 でも、ポケットの中のビスケットは、砕けずに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ