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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第59話 舞台下の滑車と煮詰まる鍋

 排気ダクトの中は、すすと熱気の通り道だった。

 四つん這いで進む私の膝は、鉄板の継ぎ目に当たるたびに悲鳴を上げている。

 前を行くレオの靴底が、目の前で一定のリズムを刻んでいた。


 「……ねえ、レオ」

 私は声を潜めて言った。

 「このダクト、掃除したことあるのかしら。埃で窒息しそうよ」

 「文句を言うな。正面から入れば信者の波に飲まれて圧死する」

 レオの声が、狭い空間に反響する。

 「それに、ここは一番警備が薄い。ネズミしか通らない道だからな」


 「誰がネズミよ」

 私は咳き込みそうになるのを堪え、匍匐ほふく前進を続けた。

 ダクトの壁面からは、公会堂の地下ボイラー室の振動が直接伝わってくる。

 ゴウン、ゴウン、という重たい駆動音。

 市民から奪った石炭を、彼らは惜しみなく燃やしているのだ。


 やがて、前方の格子越しに光が見えてきた。

 レオが止まる。

 彼は格子を指先で押し、外れかけていることを確認すると、音もなく取り外した。

 下を覗き込む。


 「……降りるぞ」

 彼が先に飛び降りた。着地音はない。

 私も続く。レオが下で受け止めてくれたおかげで、足首を挫かずに済んだ。


 そこは、公会堂の地下倉庫だった。

 かつては備品や椅子が積まれていた場所だが、今は様子が一変している。

 天井が高い空間に、巨大な滑車やロープ、太い送風パイプが張り巡らされていた。

 まるで工場のラインか、あるいは大掛かりな芝居小屋の舞台裏だ。


 「何これ」

 私は近くの装置に触れた。

 鉄製のウインチだ。太いワイヤーが巻かれている。

 油の匂いが新しい。


 耳を澄ます。

 ウインチに残る、昨日のリハーサルの記憶。


 ――巻き上げろ。

 ――タイミングを合わせろ。

 ――聖女が浮くぞ。光を当てろ。


 「……『昇天』の仕掛けね」

 私はワイヤーを指で弾いた。

 「このワイヤーで聖女を吊り上げて、空を飛んでいるように見せるつもりよ。明日のミサで」


 レオが装置の基部を確認する。

 「単純なトリックだ。だが、スモークと照明で隠されれば、信者たちの目には奇跡に映る」

 彼は近くにあった送風機を蹴った。

 「煙幕用のドライアイスか、あるいは化学スモークか。視界を遮る準備も万端だな」


 部屋の奥から、別の匂いが漂ってきた。

 甘く、少し鼻につく薬品臭。

 あの「聖水」と同じ匂いだ。


 「あっち」

 私は臭いの元を指差した。

 「調理場があるわ。スープじゃなくて、もっと高い薬を煮込んでる」


 私たちは物陰に隠れながら移動した。

 倉庫の奥、本来なら食品庫だった場所に、明かりが漏れている。

 中から話し声が聞こえる。


 覗き込むと、そこには白衣を着た男たちが数人、大きな寸胴鍋をかき混ぜていた。

 鍋の中身は透明な液体だが、湯気には独特の色気がある。

 横のテーブルには、白い粉末が入った袋が山積みされていた。


 「……量を増やせ」

 白衣の男の一人が指示を出している。

 「効き目が薄いと苦情が出ている。信者たちの耐性が上がってきたんだ」

 「これ以上濃くすると、中毒症状が隠せなくなりますよ」

 「構わん。どうせ春には用済みだ。それまで搾り取れればいい」


 レオの目が細められた。

 彼は腰のホルスターに手を伸ばしかけ、止めた。

 ここには白衣の男たちだけでなく、武装した警備兵もいるからだ。

 部屋の隅でタバコを吸っている男たち。

 その腕には、見覚えのある刺繍が入った腕章が巻かれていた。


 二匹の蛇。


 「やはりな」

 レオが耳元で囁く。

 「教団は隠れ蓑だ。蛇の資金調達と、実験場を兼ねている」


 「実験?」

 「恐怖を感じない兵士を作る薬と、人を操る薬。成分は似ているはずだ。ここでデータを取っているんだろう」


 私は鍋を見つめた。

 あの中にあるのは、市民たちの正気を奪い、労働力を奪い、そして最後には命さえ奪う毒だ。

 それを「神の恵み」と呼んで配っている神経には反吐が出る。


 「……どうする? ここで暴れる?」

 私が聞くと、レオは首を横に振った。

 「ここで鍋をひっくり返しても、奴らはまた別の場所で鍋を火にかけるだけだ。根元から断つ必要がある」


 「根元?」

 「奇跡だ。奴らの支配力の源泉は、聖女が見せる奇跡にある。それがペテンだと白日の下に晒せば、信者たちの洗脳は解ける」


 彼はポケットから、小型の工具――あの『戦術開缶器』を取り出した。

 「仕込みをするぞ。明日のミサが、奴らの最後のショーになるように」


 レオは音もなくウインチの方へ戻っていった。

 彼はワイヤーの固定具に工具を当て、何かを緩め始めた。

 完全に外すのではない。

 ある程度の負荷がかかった瞬間に、自然に外れるような絶妙な細工。


 「……性格悪いわね」

 私が呆れると、彼は作業の手を止めずに答えた。

 「戦術だ。敵の武器を利用して自滅させるのが一番効率がいい」


 私は見張りを続けた。

 白衣の男たちは、まだ鍋をかき混ぜている。

 彼らの背後にある棚には、金庫が置かれていた。

 中身の声が聞こえる。


 ――重い。

 ――入りきらない。

 ――金貨。宝石。権利書。


 市民から巻き上げた財産だ。

 暖炉の薪すら買えない老婆が、震える手で差し出した小銭も、あの中に眠っている。


 「ねえ、レオ」

 「なんだ」

 「あそこの金庫、後で回収してもいい?」

 「好きにしろ。ただし、重くて持てないぞ」

 「ボリスたちに運ばせるわ。彼らも給料未払いで機嫌が悪いもの」


 作業が終わった。

 レオは工具をしまい、指紋を拭き取った。

 ウインチは見た目には変化がない。だが、明日の本番で聖女が宙に浮いた瞬間、この滑車は彼女を支えることを拒否するだろう。


 「撤収だ」

 レオが合図する。

 私たちは来た道――煤だらけの排気ダクト――へと戻った。


 帰り道、ダクトの隙間から、地上の広場の様子が見えた。

 雪の中、まだ多くの人々が祈りを捧げている。

 彼らは知らない。

 自分たちが崇める奇跡の正体が、地下の鍋で煮込まれた薬品と、油まみれの滑車にすぎないことを。


 「明日は晴れるといいわね」

 私は膝の煤を払った。

 「手品が失敗するところは、明るいところで見たいもの」


 レオは答えず、ただ黙々と梯子を登っていった。

 その背中からは、明日の「演出家」としての冷徹な気配が立ち上っていた。

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