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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第58話 蝋燭の列

 公会堂の正面扉は、鯨の口のように大きく開かれていた。

 そこへ吸い込まれていく人々の波。

 誰もが手に証明書代わりの木札を握りしめ、救いと、そして何より「暖かさ」を求めて列を作っている。


 「……行ってくるわ」

 私はコートの襟を詰め、わざと髪を乱した。

 雪を少しすくって頬に塗りつける。冷たさで肌が赤くなり、病的な血色に見えるはずだ。

 「どう? 迷える哀れな子羊に見える?」


 物陰に隠れたレオが、呆れたように私を見下ろした。

 「腹を空かせた狼にしか見えん」

 彼は私の腰に手を回し、コートの下に隠したナイフの位置を確認した。

 「武器は使うなよ。見つかれば袋叩きだ」

 「わかってる。私の武器はこの耳と、カマトトぶる演技力だけよ」


 私はレオの元を離れ、列の最後尾に並んだ。

 前の女性が心配そうに振り返る。

 「あら、お嬢ちゃん一人? 親御さんは?」

 「……お父様は病気で。お母様は出て行きました」

 私は目を伏せ、震える声を作った。嘘ではない。私の両親の話ではないだけで、世の中にはありふれた悲劇だ。

 「まあ、可哀想に。聖女様にお祈りすれば、きっと良くなるわ」


 女性は優しく背中をさすってくれた。

 彼女の手は温かい。だが、その瞳の奥には、理性を手放した者特有の、底のない依存の色が浮かんでいる。


 列が進む。

 入り口で信者が木札を検め、聖水を配っている。

 私はそれを受け取り、飲むふりをして袖口に流し込んだ。

 冷たい液体が腕を伝う。


 建物の中に入ると、そこは熱帯だった。

 奪われた石炭が惜しみなく焚かれているのだろう。むっとするような熱気が、香の煙と共に充満している。

 壁際にはボイラーの配管が走り、そこから定期的にガコン、という音が響いていた。


 「特別面会をご希望の方は、こちらへ」

 白いローブの男が案内している。

 寄付金の額が多い者、あるいは深刻な悩みを抱えた者が通されるルートだ。

 私はよろめく演技をして、男の足元に倒れ込んだ。


 「あっ……!」

 「大丈夫ですか、姉妹よ」

 男が私を抱き起こす。

 私は彼の腕を掴み、涙目の演技をした。

 「聖女様に……どうしても、お会いしたいんです。妹が、もう長くないんです」


 男は私のボロボロのコートと、必死な形相を見て、慈悲深い笑みを浮かべた。

 「わかりました。導きましょう。貴女の悲しみは、ここで癒やされます」


 チョロいものだ。

 私は感謝の言葉を繰り返し、男の先導で奥の廊下へと進んだ。


 *


 公会堂の舞台裏、かつては楽屋だったと思われる一室が、「聖女の間」に改装されていた。

 床には厚い絨毯が敷かれ、壁には金色の刺繍が入ったタペストリーが掛けられている。

 部屋の中央に、豪奢な椅子が置かれ、そこに彼女は座っていた。


 聖女。

 広場で見かけた時よりも、近くで見る彼女はさらに幼く見えた。

 十代半ばだろうか。

 透けるような白い肌。色素の薄い金髪。

 彼女は豪奢な衣装に身を包み、膝の上で手を組んで、人形のように座っていた。


 部屋には数人の信者がいて、順番に彼女の前に進み出ては、何かを囁き、彼女の手を額に当ててもらっている。

 それだけで、彼らは泣き崩れ、感謝を述べながら去っていく。


 「……次の方」

 側付きの司祭が私を呼んだ。


 私は進み出た。

 絨毯が足音を消す。

 聖女との距離が縮まる。

 彼女の目は開いていたが、焦点が合っていない。ガラス玉のような瞳が、私を通り越して虚空を見つめている。


 耳を澄ます。

 この部屋には、信者たちの「すがりつく声」と、司祭たちの「計算する声」が充満している。

 だが、聖女の場所だけ、音が違った。


 ――痒い。

 ――背中が痒い。

 ――誰か掻いて。


 あまりに人間的な、そして切実な思考。

 神秘性のかけらもない。


 私は聖女の前に膝をついた。

 司祭が私の肩に手を置く。

 「悩みを打ち明けなさい。聖女様は全てを聞き届けてくださる」


 私は顔を上げ、聖女の目を見た。

 近くで見ると、彼女の首筋に、ファンデーションで隠された赤い発疹があるのがわかった。

 そして、ドレスの背中のあたりが不自然に盛り上がっている。


 ――動けない。

 ――コルセットがきつい。

 ――喉が渇いた。水をくれ。あの苦い水じゃないやつを。


 彼女の心の声は、叫び続けていた。

 だが、その唇は微動だにしない。

 

 「……妹を」

 私は口に出して言った。

 「妹を助けてください。高熱が続いて、うなされているんです」


 聖女がゆっくりと右手を上げた。

 自分の意志ではない。

 彼女の肘のあたりから、極細の糸のようなものが伸びて、天井の闇に繋がっている気配がする。

 操り人形だ。

 上から誰かが操作している。


 彼女の手が、私の頭に触れた。

 冷たい。

 血の通っていないような冷たさだ。


 その瞬間、接触点を通じて、彼女の思考が濁流のように流れ込んできた。


 ――助けて。

 ――ここから出して。

 ――声が出ないの。薬で喉を焼かれた。

 ――私は聖女じゃない。ただの孤児よ。


 「……っ」

 私は呻き声を上げるふりをして、彼女の手を強く握り返した。

 司祭が眉をひそめる。

 「無礼な。手を放しなさい」


 私は放さなかった。

 代わりに、握った指先で、彼女の掌に合図を送る。

 トン、トン、ツー。

 簡単なモールス信号ではない。ただの「私はここにいる」というリズム。


 聖女の目が、一瞬だけ揺らいだ。

 焦点が私に合う。

 ガラス玉に、生命の光が灯る。


 ――聞こえるの?

 ――私の声が?


 彼女の思考が、私に問いかけてくる。


 私は小さく頷いた。

 誰にも気づかれないほどの角度で。


 「……ありがとうございます」

 私は声を震わせた。

 「貴女の温かさが、伝わりました」


 私は彼女の指を、強く、痛いくらいに握りしめてから離した。

 「必ず、また来ます」

 それは信仰の誓いではない。

 契約の申し出だ。


 聖女の手が膝に戻る。

 再び人形に戻った彼女だが、その内側で、諦めかけていた感情が小さな炎となってくすぶり始めたのを、私は聞き逃さなかった。


 ――待ってる。

 ――連れ出して。

 ――あの怖いおじさんたちから、私を逃がして。


 「時間です」

 司祭が私の腕を引き、立たせた。

 「出口はあちらだ。寄付は箱へ」


 私は聖女に背を向け、出口へと歩いた。

 部屋の隅、カーテンの陰に、見覚えのある刺繍が入った腕章をつけた男が立っているのが見えた。

 二匹の蛇。

 彼らはここにもいた。この茶番劇の脚本家兼、演出家として。


 公会堂を出ると、外は雪だった。

 冷たい風が、火照った頬を冷ます。

 物陰で待っていたレオが、音もなく私の横に並んだ。


 「どうだった」

 「最悪よ」

 私は袖口の濡れたコートを払った。

 「中身は空っぽ。ただの可哀想な女の子が、糸で吊るされてるだけ」


 「本物の奇跡はないか」

 「あるわけないでしょ。あるのは、薬漬けの操り人形と、それを操る蛇使いだけ」


 私はレオを見上げた。

 「助けるわよ」

 「依頼人はいないぞ」

 「あの子が依頼人よ。心の中で叫んでた。『ここから出して』って」


 レオは公会堂の屋根を見上げた。

 煙突から黒い煙が上がっている。

 市民から奪った石炭で、あの嘘の城を暖めているのだ。


 「報酬は?」

 「未定。でも、あそこには蛇の資金源があるはずよ。それをぶんどれば、お釣りが来るわ」


 レオはニヤリと笑った。

 「悪くない取引だ。作戦を立てるぞ」


 私たちは雪の中を歩き出した。

 背後の公会堂から、信者たちの賛美歌が聞こえてくる。

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