第57話 凍った暖炉
吐く息が白く濁り、空中で凍りついて落ちていくような錯覚を覚えた。
私は毛布を頭から被り、ミノムシのように丸まって震えていた。
部屋の中だというのに、外と変わらない寒さが充満している。
暖炉は空っぽだった。
灰を掻き出しても、燃え残りの木片一つ出てこない。
ドアが開く音がした。
冷たい風が吹き込み、私の頬を叩く。
レオが戻ってきた。
彼の肩には雪が積もっている。手には何も持っていない。
本来ならそこに、黒くて重い麻袋――一週間分の石炭――が握られているはずだった。
「……ないの?」
私は毛布の隙間から聞いた。
「売り切れ?」
レオは無言で雪を払い、ドアを閉めた。
「在庫はある。山のように積まれていた」
「じゃあ、なんで手ぶらなのよ。財布を落とした?」
「売らないそうだ」
彼はコートを脱がずに、部屋の中央で立ち尽くした。
「炭鉱からの輸送ルートが変更された。全ての燃料は『救済教団』の管理下に置かれ、一般販売は停止。配給制になった」
「配給?」
嫌な予感がして、私は毛布から顔を出した。
「誰に配るのよ」
「『信心深き者』にだ」
レオは吐き捨てるように言った。
「購入には教団の発行する証明書が必要だと言われた。朝の礼拝に参加し、教えを乞うた者にだけ、暖を取る権利が与えられる」
「……ふざけてるわね」
私は立ち上がった。
寒さで膝がガクガクするが、怒りの熱量が勝った。
「信仰心で暖炉が燃えるなら世話ないわ。あいつら、寒さを人質に取る気?」
「ライフラインの掌握だ。水、食料、そして燃料。人間が生きるのに不可欠なものを押さえれば、大衆は従わざるを得ない」
レオは窓に近づき、鎧戸の隙間から外を覗いた。
「街を見てみろ。煙突から煙が出ていない」
私も並んで覗き込んだ。
確かに、街は死んだように静かだった。
いつもなら昼食の支度で賑わう時間帯だが、通りの人影は疎らで、屋根の上には雪が降り積もる一方だった。
「ダリオのところへ行くぞ」
レオが踵を返した。
「裏ルートがあるはずだ。正規の商人がダメなら、横流し品を手に入れる」
*
ギルドの本拠地である酒場は、いつもなら昼間から怒号と笑い声が渦巻いている場所だ。
だが、今日はドアを開けても、静寂が迎えてくれた。
テーブルにはカードも酒瓶もなく、数人の男たちが椅子に座ってぼんやりと虚空を見つめている。
「……何これ」
私は足を踏み入れ、周囲を見回した。
男たちの目は虚ろで、手には数珠のような飾りを持っている。
喧嘩の傷が絶えなかったゴロツキたちが、まるで去勢された猫のように大人しい。
奥の席に、ダリオがいた。
彼は頭を抱え、テーブルに突っ伏していた。
私たちが近づくと、彼は緩慢な動作で顔を上げた。
自慢のカイゼル髭が垂れ下がり、覇気がない。
「……おお、レオか」
ダリオの声は掠れていた。
「悪いが、今日は休業だ。仕事はない」
「仕事の斡旋を頼みに来たんじゃない」
レオはダリオの向かいに座った。
「石炭だ。お前のルートで手配しろ。金なら倍払う」
ダリオは力なく首を振った。
「無理だ。俺の部下たちは動かない」
「ストライキか?」
「いや、解脱だ」
ダリオは近くの席の男を指差した。
屈強な大男だが、今は窓の外の雪を眺めて微笑んでいる。
「おい、トニー。倉庫から石炭を運んでこい。客だぞ」
トニーと呼ばれた男は、ゆっくりと首を横に振った。
「ボス……いや、ダリオ兄弟。労働は魂を曇らせます。今は祈りの時間です」
「……だとよ」
ダリオは深いため息をついた。
「昨日、あいつらは教団の集会に行って帰ってきた。それからこれだ。『暴力はいけない』『強欲は罪だ』。俺の命令よりも、聖女様の言葉のほうが重いらしい」
私はトニーに近づいた。
彼の胸元には、例の小瓶がぶら下がっている。中身は空だ。
耳を澄ます。
彼の思考は、白い霧の中にいるようだった。
――気持ちいい。
――何も考えなくていい。
――聖女様。光。温かい。
思考停止。
薬の効果と、集団催眠による酩酊状態。
彼らは「良くなった」のではない。ただ、都合よく「壊された」だけだ。
「……薬が回ってるわ」
私はダリオに告げた。
「あんたの部下たち、みんなヤク中みたいなものよ。抜けるまで数日はかかる」
「数日だと? その間に俺たちは凍え死ぬぞ」
ダリオはテーブルを叩いたが、その音さえも弱々しかった。
「教団は石炭を独占している。俺たちのような『汚れ仕事』の人間には売らないそうだ。悔い改めて、全財産を寄付すれば考えてやる、だとさ」
レオが立ち上がった。
「期待外れだ。他を当たる」
「他なんてねえよ!」
ダリオが叫んだ。
「市場も、運送屋も、みんなあっち側だ。この街で教団に逆らってるのは、俺とお前たちくらいのもんだ!」
*
私たちは酒場を出て、街の外れにある貯炭場へと向かった。
高い金網のフェンスに囲まれた敷地には、黒いダイヤの山がいくつも築かれている。
だが、その入り口は固く閉ざされ、白いローブを着た信者たちが警棒を持って立っていた。
門の前には、市民たちが列を作っている。
彼らは手に手に証明書を持ち、頭を下げて石炭を乞うていた。
中には、子供を連れた母親もいる。
「お願いします。もう少しだけ……。子供が風邪を引いているんです」
女性が懇願する声が聞こえる。
門番の男は、冷ややかな目で見下ろした。
「信仰が足りませんね。貴女の寄付額は基準に達していません。まずは魂を清めてから来なさい」
男はゲートを閉めようとする。
女性が縋り付くが、突き飛ばされて雪の上に倒れ込んだ。
誰も助けようとしない。
列に並ぶ他の市民たちは、自分の番が来るのを待って、見て見ぬふりをしている。
「……レオ」
私はフェンスの陰からその光景を見ていた。
「聞こえる?」
「ああ」
物理的な声ではない。
貯炭場の奥、管理小屋から漏れてくる、教団幹部たちの思考音。
――チョロいもんだ。
――絞れば絞るほど、奴らは必死になる。
――在庫は十分だ。春まで持つ。自分たちの分はな。
彼らは石炭が足りないから配給制にしているのではない。
支配するために止めているのだ。
私の隣で、カチャリという音がした。
レオが腰のホルスターの留め具を外した音だ。
彼の目は、門番ではなく、その奥にある石炭の山を見据えていた。
「……俺たちの生活を脅かす奴は」
レオが低く呟く。
「神だろうが悪魔だろうが、ただの敵だ」
「賛成よ」
私はポケットから飴の缶を取り出し、一粒口に放り込んだ。
「凍死するのは御免だわ。実力行使で温まりましょう」
レオは踵を返し、その場を離れた。
正面突破ではない。
彼はもっと効率的で、かつ相手が一番嫌がる方法を計算し始めていた。
その背中からは、凍てつく空気をも溶かすような、静かな殺気が立ち上っていた。




