第56話 舞台裏の電流
会場となった公会堂の扉が開くと、熱気という名の壁が私たちを押し返してきた。
外の氷点下の気温とは別世界だ。
数百人の人間が発する体温と、焚かれた香の煙が天井付近に溜まり、白く澱んでいる。
私たちは人波に押されるようにして中に入り、柱の陰に場所を確保した。
「……臭うわね」
私は鼻を手で覆った。
「汗と、カビと、甘ったるいお香の匂い。市場の魚のほうがまだ正直な匂いがする」
「羊の群れの中に入れば、羊の臭いがするのは当然だ」
レオは壁に背中を預け、会場全体を視線でなぞった。
彼の目は祭壇の装飾や聖女の美しさではなく、非常口の位置と、会場の四隅に立つ屈強な男たち――「警備係」という名札をつけた監視役――に向けられている。
「警備が厚いな。ただの説法会にしては、配置が実戦的だ」
「信者が暴走した時のため?」
「いや、外敵を排除するためだ。腰の膨らみを見ろ。棍棒だけじゃない。懐に何か隠している」
私は飴の缶をポケットの中で握りしめた。
昨日の「奇跡の水」の効果か、周囲の人々の目は異様に輝いている。
疲労や飢えの色は見えない。
あるのは、熱狂的な期待だけだ。
――見せてくれ。
――奇跡を。
――俺を救ってくれ。
数百人の思考が、一つの方向に収束していく。
それは巨大な渦のようであり、同時に思考停止した静寂のようでもあった。
「……静かね」
「ああ。誰も私語を話さない。咳払い一つ聞こえん」
その時、照明が落ちた。
闇の中で、祭壇だけがスポットライトに照らされる。
白い煙が焚かれ、幻想的な雰囲気が演出された。
舞台袖から、白いローブを纏った一団が現れる。
その中央に、昨日広場で見かけた「聖女」がいた。
彼女は顔をベールで隠し、無言で祭壇の前に立った。
手には何も持っていない。
ただ、その華奢な体が光の中に浮かび上がると、客席からため息のような吐息が漏れた。
「迷える子羊たちよ」
司祭らしき男が、よく通る声で告げた。
「今日、我々は神の愛を目撃する。信じる者には救いがある。疑う者にも、光は注がれる」
男が手を挙げると、舞台の袖から一台の車椅子が押されてきた。
乗っているのは老人だ。
ボロボロの服を着て、痩せこけている。足は毛布で隠され、力なく垂れ下がっていた。
「彼は、十年もの間、歩くことができなかった」
司祭が悲痛な声で語る。
「鉱山の落盤事故で脊椎を損傷し、医者に見放された哀れな男だ。だが、彼は祈りを捨てなかった」
老人が震える手で聖女の方を拝む。
観客が息を呑む。
わかりやすい演出だ。不幸な老人と、救いの手。
「……レオ」
私は小声で囁いた。
「あの老人、この街の人?」
「知らん。だが、炭鉱夫にしては手の皮が薄い。タコがない」
聖女が老人に歩み寄った。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、老人の頭に触れた。
「立ちなさい」
司祭が叫んだ。
「神の御名において、その足に力を!」
聖女の手が、老人の肩へ、そして背中へと移動する。
その動作は優雅で、慈愛に満ちているように見えた。
だが、私の耳には違う音が届いていた。
バチッ。
微かな、しかし鋭い放電音。
空気が焦げる臭い。
そして、老人の体内から響く、筋肉の悲鳴。
――痛い!
――熱い!
――焼き切れる!
「……う、ううっ……!」
老人が呻き声を上げ、車椅子の上で体をのけぞらせた。
観客はそれを「感動の震え」だと思ったらしい。
「おお……!」と歓声が上がる。
違う。
あれは痙攣だ。
強制的な電気ショックによる、筋肉の収縮反応。
私は目を凝らした。
車椅子の背もたれ。パイプの中に、細いコードが通っている気配がする。
そして、聖女の指先。
彼女が触れている老人の背中には、何らかの金属端子が隠されているはずだ。
――立て。立たないと金が貰えない。
――痛いのは一瞬だ。
――これで借金が返せる。
老人の心の声が聞こえた。
信仰心ではない。
金銭への執着と、物理的な痛みへの恐怖。
「……役者ね」
私はレオの袖を引いた。
「あのおじいさん、足は動くわ。ただのサクラよ」
「演技か」
「演技と、電気仕掛けの拷問ね。車椅子から電流を流して、無理やり立たせようとしてる。カエルの足に電気を流すと動くのと同じ理屈よ」
ステージ上では、クライマックスが近づいていた。
老人が車椅子の肘掛けを掴み、ガタガタと震えながら腰を浮かせた。
汗が滝のように流れている。
顔面は蒼白だ。
「立った! 立ったぞ!」
司祭が叫ぶ。
「奇跡だ! 聖女様の祈りが通じたのだ!」
老人はふらつきながらも、直立した。
足が勝手に動いているかのように、痙攣しながら一歩を踏み出す。
会場が爆発したような歓声に包まれた。
泣き出す者、祈りを捧げる者、狂ったように拍手をする者。
「……馬鹿馬鹿しい」
レオが吐き捨てた。
「だが、効果的だ。この集団心理の中では、タネや仕掛けなど誰も気にしない」
老人は数歩歩いて、聖女の足元に崩れ落ちた。
聖女がそれを抱きとめる。
美しい構図だ。
だが、私の耳には、聖女の心の声も届いていた。
――重い。
――臭い。
――早く終わって。
感情のない、冷めた声。
彼女もまた、この舞台装置の一部にすぎない。
「……帰るぞ」
レオが背を向けた。
「見るべきものは見た。これ以上ここにいると、俺たちの脳まで腐りそうだ」
私たちは熱狂の渦から抜け出し、出口へと向かった。
外に出ると、冷たい風が熱った頬を冷やした。
雪が降っている。
公会堂の中から漏れてくる歓声が、遠い世界の出来事のように聞こえた。
「電気ショックで人を踊らせて、金と信仰を集める」
私はポケットの中で、冷たくなった指先を温めた。
「悪趣味な見世物小屋ね」
「ただの見世物なら放置するが」
レオは公会堂の屋根を見上げた。
「奴らは物流を握ろうとしている。暖房用の石炭、食料、そして水。この街のライフラインを人質に取る気だ」
「生活の邪魔をする奴は?」
「敵だ」
レオは即答した。
「排除する。物理的に、かつ論理的にな」
彼は歩き出した。
その背中は、探し物屋の「レオ」ではなく、作戦行動を開始する指揮官のものに戻っていた。
私はその後ろ姿を見ながら、昨日の飴の残りを口に放り込んだ。
甘さが広がる。
この甘さが、あの「奇跡の水」よりも確かな現実であることを噛み締めながら、私は雪道を踏みしめた。




