第55話 白い行列
窓ガラスに張り付いた霜を指先で擦ると、視界の真ん中だけがクリアになった。
そこから見える景色は、いつもと違っていた。
雪かきをされた通りには、荷馬車の轍がない。
朝のこの時間なら、市場へ向かう商人の怒号や、車輪が凍った地面を削る音が響いているはずだ。だが今日は、雪が音を吸い込んだような静寂が街を覆っていた。
「……静かね」
私は窓枠に肘をついた。
「みんな寝坊したのかしら。それとも、集団で夜逃げでもした?」
背後で、レオがコーヒーを淹れていた。
彼の手元には、先日「戦術的勝利」によって手に入れた砂糖壺がある。
「夜逃げにしては荷物が残っている」
彼はカップを二つ、テーブルに置いた。
「煙突から煙が出ている家が少ない。暖炉を焚いていないか、あるいは家にいないかだ」
私はカップを受け取り、口をつけた。
甘い。
砂糖の量が適切だ。彼も少しは学習したらしい。
「市場に行ってみましょう」
私はカップを飲み干し、コートを掴んだ。
「ボリスが泣きっ面をかいていなければいいけど」
*
市場はゴーストタウンのようだった。
いつもなら客でごった返している中央通路には、寒風が吹き抜けているだけだ。
屋台の多くは畳まれており、開いている店も、店主が手持ち無沙汰に貧乏揺すりをしている。
乾物屋のテントの陰に、見慣れた大柄な影があった。
ボリスだ。
彼はパイプを噛み締め、眉間に深い皺を寄せていた。足元には、売れ残った干し魚の箱が積み上げられている。
「……おはよう、組合長」
声をかけると、ボリスはのっそりと顔を上げた。
「ああ、レオとレティか。今日は休業だ。帰って寝てな」
「客がいないわね」
「客だけじゃない。商人もいねえ」
ボリスはパイプを外し、虚空に煙を吐いた。
「広場だよ。中央広場。そこに全部吸い取られちまった」
「何があるの?」
「無料飯だ」
ボリスは忌々しそうに言った。
「白い服を着た連中が、夜明け前からスープとパンを配ってやがる。しかも無料だ。こっちが必死に仕入れた商品を並べてる横で、タダで配られたら商売にならねえよ」
レオが顎を摩った。
「慈善事業か。金持ちの道楽にしては規模が大きいな」
「道楽ならまだいい。ありゃあ、宗教だ」
ボリスは足元の箱を蹴った。
「『救済教団』とか言ってたな。腹を満たして、ついでに心も満たしましょうって魂胆だ。……おかげで俺の財布は空っぽだがな」
私はレオと顔を見合わせた。
「行くぞ」
レオが短く言った。
「タダより高いものはない。確認が必要だ」
*
中央広場に近づくにつれて、人の気配が濃くなってきた。
そして、匂い。
野菜を煮込む甘い匂いと、独特の香木の香りが混ざり合って漂ってくる。
広場は、黒山の人だかりだった。
いや、雪を被った帽子やコートのせいで、白と黒のまだら模様に見える。
その中心に、巨大なテントが設営されていた。
軍用の武骨なものではない。真っ白な布で作られた、清潔で目を引く天幕だ。
テントの前には列ができていた。
何百人もの市民が、器を持って並んでいる。
配給を行っているのは、純白のローブを着た男女だった。
彼らは寒空の下でも笑顔を絶やさず、一人一人に声をかけながらスープを注いでいる。
「どうぞ。神の恵みです」
「温まってください。貴方の苦しみは癒やされます」
柔らかな声。
市場のダミ声とは正反対の、耳に心地よい響き。
「……気味が悪いな」
レオが呟いた。
「規律がありすぎる。スープを配る手際が、野戦炊事班よりも洗練されている」
私たちは列の最後尾には並ばず、広場の端にある噴水の縁に腰掛けた。
ここからなら全体が見渡せる。
配給を受け取った人々は、スープと一緒に小さな小瓶を渡されていた。
親指ほどの大きさのガラス瓶。
中には無色透明の液体が入っている。
「あれは何?」
近くにいた男に尋ねた。スープを啜り終え、恍惚とした顔をしている労働者だ。
「ん? ああ、これか」
男は小瓶を大事そうに掲げた。
「『清めの水』だよ。これを飲むと、体の痛みが消えて、気分が晴れるんだ。聖女様が祈りを込めた水だそうだ」
「へえ。ただの水なのに?」
「ただの水じゃねえよ! 奇跡の水だ!」
男はムキになって反論し、瓶の蓋を開けて一気に飲み干した。
直後、男の肩から力が抜け、ほうっと長い息を吐いた。
その瞳孔が、わずかに開いたように見えた。
「……レオ」
私は小声で呼んだ。
「調達して。あのお水」
「並ぶのか」
「いいえ。あそこで配り損ねてこぼれそうになってる信者がいる」
レオは人混みに紛れ、お盆を持って歩いていた信者の男に、わざと肩をぶつけた。
「おっと、すまん」
「あ、いえ……」
信者がよろめいた隙に、レオの手が盆の上の小瓶を一つ掠め取っていた。
早業だ。
彼は何事もなかったかのように戻ってきて、私の掌に瓶を落とした。
冷たいガラスの感触。
私は瓶を光にかざした。
不純物はない。見た目は清涼な湧き水だ。
私は目を閉じた。
広場のざわめき、賛美歌の合唱、スープをすする音。
それらを遮断し、掌の中にある液体の「記憶」に潜る。
水の音ではない。
自然の川や、井戸の底の音ではない。
――煮詰めろ。
――濃縮しろ。
――混ぜろ。見えないように。
釜の音。
薬草をすり潰す音。
そして、化学薬品が反応して泡立つ、シュワシュワという微細な音。
――痛み止めだ。
――不安を消す。
――依存させろ。もっと欲しがるように。
「……やっぱりね」
私は目を開けた。
「聖女様の祈りって、随分と薬臭いのね」
「何が入っている」
レオが瓶を取り上げ、匂いを嗅いだ。
「無臭だ」
「鎮痛剤と、興奮剤。それから、微量の麻薬成分」
私は男が飲み干した空き瓶が転がっているのを見た。
「飲むと元気になるわよ。腰痛も消えるし、お腹も空かなくなる。でも、切れたら地獄ね」
「阿片チンキを薄めたようなものか」
レオは顔をしかめた。
「古典的だが、飢えた市民には特効薬だ。スープとセットなら尚更な」
白いテントの奥から、一際大きな歓声が上がった。
幕が開き、台座の上に一人の少女が現れる。
白いベールで顔を隠しているが、その佇まいは神秘的だ。
彼女が手を上げると、広場の群衆が一斉に静まり返り、そして祈るように膝をついた。
異様な光景だった。
昨日まで、小銭を巡って怒鳴り合っていた市場の連中が、羊のように大人しく頭を垂れている。
「……商売敵としては最悪の相手だ」
レオが瓶をポケットにしまった。
「暴力も金も使わずに、人心を掌握している」
「しかも、商品は『中毒性のある水』ときた」
私は立ち上がり、コートの雪を払った。
「ボリスが嘆くわけね。これじゃあ、魚なんて誰も買わないわ」
私たちはその場を離れた。
広場に満ちる「祈り」の熱気が、背中に冷たく張り付く。
空からは、また白い雪が落ちてきていた。
それは、街全体を麻痺させる白い粉薬のように見えた。




