第54話 銭湯の湯気と背中の地図
蛇口を捻ると、カチンという硬い音がして、それきりだった。
水は出ない。一滴もだ。
私はハンドルを逆方向に回し、さらに叩いてみたが、配管は沈黙を守っている。
「……ダメね」
私は諦めて手を離した。
「水道管の中で氷河期が到来してるわ。これじゃ顔も洗えない」
レオが流し台の下に潜り込み、パイプをレンチで軽く叩いた。
カーン、と高い金属音が響く。中身が液体ではなく固体になっている音だ。
「解凍には時間がかかる。火で炙るしかないが、それをやるとパッキンが溶ける」
彼は埃だらけの顔で這い出してきた。
「今日は風呂屋に行くぞ」
「風呂屋?」
「街の西側に公衆浴場がある。ボリスから無料券を貰った」
彼はポケットから、端の切れたチケットを二枚取り出した。
「……珍しく気が利くわね、あの強面」
私はタオルと石鹸、それに着替えを麻袋に詰め込んだ。
ここ数日、体拭きだけで済ませていた皮膚が、湯気を求めて疼く気がした。
*
『白熊の湯』という看板が掛かった建物は、煙突から猛烈な勢いで煙を吐き出していた。
入り口の戸を開けると、番台に座っていた爺さんが、チケットを受け取って男湯と女湯を指差した。
脱衣所からは、桶が床に当たる音や、水が跳ねる音が反響して聞こえてくる。
「一時間後だ」
レオが短く言い、男湯の暖簾をくぐった。
「のぼせないでよ」
私も女湯へと消える。
脱衣所は蒸し暑く、そして騒がしかった。
近所の主婦や老婆たちが、裸で世間話に花を咲かせている。
私が服を脱ぎ始めると、視線がいくつか集まった。
痩せた体、あちこちに残る擦り傷、そして右手の真新しい手術痕。
だが、誰も何も言わない。この街には訳ありの人間が多いからだ。
浴室に入る。
天井が高い。湯気が白く立ち込め、視界を柔らかく遮っている。
私は掛け湯をして、大きな浴槽に足を浸した。
熱い。
凍えていた爪先がジンジンと痺れ、血流が一気に再開する。
肩まで浸かると、思わず声が漏れた。
「……ふぅ」
「見ない顔だねえ」
隣に浸かっていた恰幅の良いおばちゃんが、手ぬぐいを頭に乗せて話しかけてきた。
「最近越してきた子かい? あの『何でも屋』の」
「ええ。レティよ」
「ああ、噂は聞いてるよ。若いのにしっかりしてるってね」
おばちゃんはニカッと笑った。
「で、一緒にいる男は? 旦那かい? それとも兄貴?」
「……相棒よ。腐れ縁の」
「へえ、相棒ねえ」
おばちゃんは興味深そうに目を細めた。
「随分とイイ男じゃないか。目つきは悪いけど、体は丈夫そうだ。夜の方はどうなんだい?」
周囲の女たちが聞き耳を立てる気配がした。
下世話な話は、娯楽の少ない北国の冬には貴重な燃料だ。
私は湯をすくって顔にかけた。
正直に「ただの同居人で、背中合わせに寝てます」と言ってもつまらないだろう。
ここは商売のためにも、少し色をつけておくべきだ。
「……野獣よ」
私は低い声で言った。
「一度火がつくと止まらないの。朝まで寝かせてくれないわ」
女たちが「あらまぁ」と色めき立つ。
「見かけによらないねえ」
「やっぱり、あの筋肉は飾りじゃないんだね」
「でも、餌をあげると大人しくなるの」
私は石鹸箱を振った。
「甘いものが好きだから、口に飴を放り込んでおけば静かになるわ」
浴室にドッと笑い声が響いた。
これで「レオ&レティ商会」の親しみやすさは三割増しになったはずだ。
私は湯船の縁に頭を預け、天井の水滴を眺めた。
壁の向こう、男湯の方からは、低い話し声と、桶の音が聞こえていた。
*
(レオニス視点)
男湯の空気は、女湯とは違って張り詰めていた。
レオニスが服を脱ぎ、浴室に入った瞬間、賑やかだった会話がピタリと止んだのだ。
彼がタオル一枚で洗い場へ向かうと、座って体を洗っていた男たちが、無言で場所を空けた。
理由は明白だ。
レオニスの体には、服の下に隠されていた「歴史」が刻まれていたからだ。
右肩から背中にかけて走る、古い斬撃の痕。
脇腹に残る、銃創のケロイド。
太腿には、破片手榴弾による火傷の地図。
それらは、彼がただの便利屋ではなく、死線をくぐり抜けてきた修羅であることを雄弁に語っていた。
レオニスは気にせず、空いたカランの前に座った。
桶に湯を汲み、頭から被る。
石鹸を泡立て、体を洗う。
背後の視線が痛いほど刺さるが、彼は無視した。
「……おい、兄ちゃん」
恐る恐る声がかかった。
隣に座っていた老人だ。背中が曲がり、手が届かないのか、手ぬぐいを持ったまま難儀している。
「すまんが、背中を流してくれんか。五十肩でな」
周囲の男たちが息を呑む。
あの傷だらけの男に頼むとは、命知らずな爺さんだ。
レオニスは泡だらけの手を止め、老人を見た。
「……いいだろう」
彼は手ぬぐいを受け取り、老人の背中に回った。
力加減を調整する。
強すぎず、弱すぎず。筋肉の筋に沿って、凝りをほぐすように擦る。
「おお……上手いな」
老人が気持ちよさそうに呻いた。
「手慣れてるじゃないか」
「昔、馬の世話をしていた」
レオニスは嘘をつかなかった。騎兵隊時代、愛馬の手入れは日課だった。
「馬か。人間よりは素直だからな」
老人は笑った。
「その背中の傷、戦争かい?」
「……ああ。古い傷だ」
「勲章みたいなもんだな。生きて帰った証拠だ」
その言葉で、場の空気が緩んだ。
男たちが一人、また一人と会話に戻っていく。
「俺も膝に弾片が残っててよ」
「俺なんざ、熊にやられた傷があるぜ」
レオニスは老人の背中を流し終え、自分の背中を洗った。
傷跡に石鹸が染みることはもうない。
ただの白い皮膚の隆起だ。
だが、この街の連中は、それを忌避するのではなく、生存者の証として受け入れたようだった。
*
風呂上がりの外気は、刃物のように鋭かった。
だが、芯まで温まった体には心地よい。
私は濡れた髪をタオルで拭きながら、建物の前でレオを待っていた。
「遅いわよ」
レオが出てくる。
彼の肌は赤みが差し、いつもの蒼白さが消えていた。
「背中流しを頼まれた。断れん」
「人気者ね。チップは貰った?」
「コーヒー牛乳を一本」
私たちは並んで歩き出した。
雪道は凍っている。
湯冷めしないように早足で歩く。
ふと、レオの手が動いた。
彼の手袋をはめた手が、私の手袋をはめた手を掴む。
握るというより、包み込むような形だ。
「……何?」
「滑る。転ばれると面倒だ」
彼は前を向いたまま言った。
「それに、熱が逃げるのを防ぐ」
「合理的ね」
私は手を振り払わなかった。
分厚い革とウールの層越しだが、彼の体温が伝わってくる。
それは、お湯の熱さとは違う、安心する温度だった。
「ねえ、レオ」
「なんだ」
「女湯でね、あんたのこと『野獣』って言っておいたわ」
「……訂正してこい」
「無理よ。もう広まってる」
レオは深いため息をついたが、手を離しはしなかった。
白い息が二つ、夜空に昇って混ざり合う。
アパートの冷え切った部屋に戻っても、今夜は寒くない気がした。




