第53話 家計簿戦争
テーブルの上に積み上げられた硬貨の塔は、私の記憶よりも三段ほど低かった。
私は鉛筆の尻で帳簿――裏紙を束ねただけのメモ帳――を叩き、目の前の男を睨みつけた。
「……レオ」
「なんだ」
レオは窓際でブーツを磨いていた。彼は私の視線に気づいているはずだが、手元のブラシを止める気配はない。
「計算が合わないの。今月の食費と燃料費、それに予備費。差し引きすると、銀貨が五枚足りない」
「誤差の範囲だ」
「誤差? 銀貨五枚あれば、一週間分の薪とジャガイモが買えるわ。それが誤差なら、あんたの胃袋はブラックホールか何か?」
私はメモ帳の間に挟まっていた一枚の紙切れを引き抜いた。
くしゃくしゃになった領収書だ。
私はそれを広げ、読み上げた。
「『軍用・多目的戦術開缶器 モデルIV』。……何これ」
レオの手が止まった。
彼は磨き上げたブーツの爪先を確認し、満足げに頷いてから口を開いた。
「必需品だ。この街の缶詰は装甲板のように硬い。安物のオープナーでは刃こぼれする」
「だからって、この値段?」
私は領収書を彼の鼻先に突きつけた。
「これ一つで鍋セットが買えるわよ。しかも『多目的』って何? 缶を開ける以外に何ができるの? 空を飛ぶとか?」
「ワイヤーの切断、ガラスの破砕、簡易的なねじ回しにもなる。グリップは滑り止め加工が施され、極寒地でも素手で扱える」
レオはポケットから、黒光りする金属の塊を取り出した。
複雑な形状をした、無骨な道具だ。
「一生モノだ。安物を何度も買い換えるより経済的だ」
「……はぁ」
私は深いため息をつき、領収書をテーブルに置いた。
「わかったわ。その『一生モノ』の価値は認める。でも、今月の赤字は事実よ」
私は硬貨の山を崩し、三つの小さな山に分けた。
家賃、食費、燃料代。
そして、本来ならそこにあるはずの「レオの小遣い」の山を作る。
銅貨が三枚だけ。
「はい、今月分」
私は銅貨を彼の前に滑らせた。
「飴玉三個分よ。大事に使ってね」
レオの表情が凍りついた。
彼は銅貨と、私が懐にしまった残りの金を交互に見た。
「……待て。タバコ代も出ない」
「禁煙すれば? 健康的だし、経済的よ」
「それは……」
「文句があるなら、その高価な缶切りを質に入れることね」
レオは口を閉ざした。
彼は銅貨を拾い上げ、恨めしそうにポケットに入れた。
そして、再びブーツ磨きに戻る。ブラシの動きが、先ほどよりも乱暴で、怒りを帯びていた。
*
その日の午後、ドアを叩く音がした。
来客だ。
レオが警戒しながらドアを開けると、毛皮の帽子をかぶった老人が立っていた。
市場の裏手で古道具屋を営んでいる男だ。
「やあ、便利屋さん。仕事をお願いできるかね」
老人は寒そうに手をこすり合わせた。
「急ぎなんだが」
「内容は」
レオが尋ねる。
「金庫だ。店で買い取った古い金庫が、どうしても開かなくてな。鍵もなければ、ダイヤルの番号もわからん」
老人は困り顔で続けた。
「中身が入ったままなんだ。もし空っぽならただの鉄屑だが、何か入っているなら確認したい」
レオは私を見た。
「行けるか」
「ええ。稼がないと、今夜のスープが薄くなるもの」
私たちはコートを羽織り、老人の店へと向かった。
*
古道具屋の倉庫は、埃と錆の匂いが充満していた。
ガラクタの山の奥に、問題の金庫が鎮座している。
高さ一メートルほどの、黒塗りの鉄塊だ。
表面は塗装が剥げ、ダイヤルは錆びついて動かない。
「これだよ」
老人が金庫を叩いた。
「バールでこじ開けようとしたんだが、歯が立たん。蝶番も内側にあるタイプでな」
私は金庫の前にしゃがみ込み、耳を当てた。
冷たい鉄板。
その奥にある空間の音を聞く。
――暗い。
――紙の匂い。
――忘れてくれ。誰も見るな。
「……中身はあるわ」
私は立ち上がった。
「紙束ね。手紙か、あるいは証券か。金属音はしないから、金貨じゃない」
「紙か! 古い権利書かもしれん」
老人が色めき立った。
「でも、鍵穴の中が死んでる」
私は錆びついた鍵穴を指差した。
「シリンダーが錆で固着してるわ。『もう回りたくない』って言ってる。ピッキングじゃ無理ね」
「なら、壊すしかないか」
老人がハンマーを持ち出そうとした。
「待って。叩いたら中の紙が衝撃で崩れるかもしれない。紙質が劣化してる音がするの」
手詰まりだ。
開けるには切断するしかないが、バーナーを使えば中身が燃える。
その時、レオが一歩前に出た。
彼はコートのポケットから、あの黒光りする金属の塊を取り出した。
『戦術開缶器』だ。
「切るぞ」
「え? それ、缶切りでしょ?」
私が呆れると、レオは無言でグリップを操作し、先端のパーツを交換した。
鋭利な鉤爪のような刃が現れる。
彼は金庫の側面、鉄板の継ぎ目に刃を当てた。
「ここは装甲が薄い。構造上、メンテナンス用の隙間があるはずだ」
彼は体重をかけ、テコの原理を使って刃を食い込ませた。
ギィィィ。
耳障りな金属音が響く。
普通の缶切りなら折れているところだ。
だが、その道具はミシリとも言わず、分厚い鉄板を噛み砕いていく。
レオの腕に血管が浮き出る。
「……硬いな」
「頑張って、五銀貨分」
私が野次を飛ばす。
レオは呼吸を整え、一気に力を込めた。
ベリッ、という音がして、鉄板の一部がめくれ上がった。
五センチほどの穴が開く。
「開いた!」
老人が叫んだ。
レオはさらに刃を動かし、穴を広げていく。
まるで桃の缶詰を開けるような手際だ。
数分後、大人が手を入れられるほどの開口部が出来上がった。
老人が震える手で中を探る。
取り出されたのは、油紙に包まれた束だった。
解くと、中から現れたのは古びた紙幣の束。
旧王国の紙幣だ。今では使えないが、コレクターの間では高値で取引されている。
「おお……! これは値打ちモンだ!」
老人が歓声を上げた。
*
帰り道、レオは報酬の入った革袋を放り投げながら歩いていた。
「……見たか」
「はいはい、見ましたよ」
私は肩をすくめた。
「役に立ったわね、そのオモチャ」
「オモチャではない。戦術ツールだ」
レオは道具を大切そうに布で拭き、ポケットにしまった。
「先行投資だと言っただろう。これのおかげで、今日の夕飯は缶詰ではなくシチューになった」
「そうね。悔しいけど認めるわ」
私は革袋を彼から奪い取った。
「今回の報酬は家計に入れるけど、特別ボーナスとして、あんたの小遣いを銀貨一枚増やしてあげる」
「一枚か」
「文句ある?」
「……ない」
レオは少しだけ口元を緩めた。
空からは小雪が舞い始めていたが、彼の足取りは軽かった。
ポケットの中の「戦術ツール」の重みが、今は心地よいのだろう。
私はため息をつき、今夜の献立を考えた。
銀貨一枚増やすなら、シチューの肉を少し減らさなければならない。




