第52話 遠い場所
壊れたドアの隙間から、夜明けの光が差し込んでいた。
薄い青色が、散乱した書類と、縛り上げられた密輸団の男たちを照らし出す。
暖房の切れた室内は急速に冷え込み、吐く息が白く濁り始めていた。
「……終わったな」
ダリオが金庫の中身を革袋に詰め込みながら、満足げに鼻を鳴らした。
「予想以上の実入りだ。これでルルに新しいコートを買ってやれる」
「奥さんへの言い訳は考えてあるの?」
私が聞くと、彼は顔を引きつらせて口笛を吹き、視線を逸らした。
レオは部屋の隅で、押収した銃器の山を確認していた。
ボルトを抜き、撃針を外す。手慣れた無力化作業だ。
「武器は自治都市の警備隊に引き渡す。金は好きにしろ」
「いいのか? 一番働いたのはあんただぜ」
ボリスがパイプを吸いながら聞いた。
「俺たちは『平和』を買った。それで十分だ」
レオは作業を終え、油で汚れた手を布で拭った。
「それに、この騒ぎで俺たちの名前は売れた。これからは向こうから仕事が来る」
私は床に散らばっていた灰――私の手配書の成れの果て――を靴底でグリグリと踏みつけた。
もう、誰も私を「アナスタシア」とは呼ばない。
ここでは、私はただの口の悪い子供だ。
「帰ろう、レオ」
私は窓の外、白く染まった山脈を見下ろした。
「お腹が空いたわ。今なら暖炉で何でも焼ける気がする」
*
アパートに戻る頃には、街は完全に目を覚ましていた。
除雪車が通り過ぎ、人々が雪かきをしている。
私たちは市場に寄り、ボリスの計らいで最高級のベーコンと卵、それに焼きたてのパンを手に入れた。
代金は「ツケ」だ。出世払いの期限は、無期限に延長されたらしい。
部屋に帰ると、暖炉の火は消えかけていた。
だが、昨夜のような陰気な寒さは感じない。
レオが薪をくべ、火を大きくする。
パチパチと爆ぜる音が、勝利の凱歌のように聞こえた。
「……静かね」
私は部屋の隅を見た。
あの老婆の幽霊の気配がない。
成仏したのか、それとも単に暖かくなって満足して眠っているのか。
どちらにせよ、文句を言われないのは快適だ。
「看板を作る」
食後のコーヒー(これも戦利品だ)を飲みながら、レオが言った。
「店の名前が必要だ」
「『何でも屋』じゃダメなの?」
「味気ない。信用商売には屋号が要る」
彼は昨日拾ってきた板切れと、余ったペンキを取り出した。
筆はない。
彼は布を棒に巻き付け、即席の刷毛を作った。
「何て書くつもり?」
私が覗き込むと、彼は迷いなく板に文字を書き始めた。
黒い塗料が、木の表面に吸い込まれていく。
『レオ&レティ商会』
『相談・調査・護衛・その他』
「……私の名前が後ろ?」
私は不満そうに言った。
「レティ&レオの方が語呂が良くない?」
「盾になる人間が前に出るのが定石だ」
レオは平然と答えた。
「お前は後ろで耳を澄ませていればいい」
彼は書き終えた板を窓の外、手すりに針金で固定した。
風に揺れる看板。
不格好な文字だが、遠くからでもよく見える。
「悪くないわ」
私は窓枠に肘をつき、看板を眺めた。
「これで私たちも、立派な自営業者ね」
「ああ。定年まで働くには十分な職場だ」
レオが私の隣に立った。
彼の横顔には、もう王都での焦燥感も、将軍としての重圧もなかった。
あるのは、今日の夕飯と明日の仕事のことだけを考える、生活者の顔だ。
私はポケットから、中身が補充された飴の缶を取り出した。
市場の雑貨屋で、量り売りの飴を詰め込んできたのだ。
色とりどりの粒。
割れていない、完全な球体。
「食べる?」
缶を差し出す。
レオは赤い粒をつまみ、口に放り込んだ。
「……甘いな」
「幸せの味よ」
私も一つ、口に入れた。
砂糖の甘さが広がり、昨夜の硝煙の臭いを完全に消し去った。
*
遥か南。
王都の中心にある古城のテラスで、一人の女性が紅茶を飲んでいた。
銀色の髪を風になびかせ、優雅にカップを傾ける。
その視線の先には、きれいに手入れされた庭園が広がっている。
「……殿下」
背後から老執事が声をかけた。
銀のトレイに乗せられた封書を差し出す。
「北部からの報告書です。『蛇』の密輸ルートが一つ、潰されたとのことです」
女性――セレナは、カップをソーサーに戻した。
カチャリ、と磁器が触れ合う音が澄んだ空気に響く。
彼女は封書を手に取り、ペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、数枚の報告書と、焦げた手配書の写し。
彼女はそれを読み進め、ふと手を止めた。
報告書の末尾に記された、襲撃者の特徴。
『大柄な男と、灰色の目をした小柄な少女』。
「……ふふっ」
セレナの唇から、小さな笑い声が漏れた。
彼女は手配書の写しを指先で弾いた。
そこに描かれた少女の顔は、彼女の記憶にある「あの夜」の顔と重なる。
「生きていたのね。私のコート泥棒さん」
彼女は報告書をテーブルに置いた。
風が紙をめくり、次のページを晒す。
そこには、新たな「火種」に関する記述があった。
『新教団の台頭』。
『聖女の出現』。
「退屈しなくて済みそうだわ」
セレナは立ち上がり、テラスの手すりに手を置いた。
その指には、かつて手錠がかけられていた痕跡はもうない。
「準備なさい。北へ使いを出すわ」
「北へ、ですか?」
「ええ。借りていたものを返してもらわないとね」
彼女は北の空を見上げた。
厚い雲の向こう、雪に閉ざされたその場所に、彼女の興味を引く「共犯者」たちがいる。
「待っていてね、レティ。そして、レオニス将軍」
彼女の呟きは、風に乗って消えた。
しかし、その瞳の奥には、新たな盤面を描く棋士のような光が宿っていた。
物語は終わらない。
ただ、場所と季節を変えて、続いていくだけだ。
私は新しい看板の下で、次の客がノックする音を待っていた。




