第51話 ナビゲーター
視界は白一色だった。
空と地面の境界線が消えている。猛烈な横殴りの雪が、目を開けていることさえ拒絶していた。
風の音が鼓膜を叩き続け、隣にいる人間の声すら掻き消そうとする。
私はレオの背中にしがみつき、彼のベルトを命綱代わりに握りしめていた。
レオは前傾姿勢で雪をラッセルしながら進んでいる。
彼もまた、目はほとんど閉じていた。この状況下で視覚に頼るのは自殺行為だ。
「……レティ」
風の隙間から、レオの低い声が届く。
「位置は」
私はフードの隙間から顔を出し、耳を澄ませた。
風鳴り。樹木の軋み。
それらの自然音のレイヤーの下にある、異質なリズムを探す。
――寒い。指がかじかむ。
――交代はまだか。
――火が欲しい。
熱源への渇望。人間が発する思考のノイズ。
「右前方」
私はレオの耳元で怒鳴った。
「小屋の影に二人。立ってるけど、寒さで震えてるから照準はブレブレよ」
「距離は」
「雪玉を投げれば届くくらい」
レオは頷き、後ろに続くダリオたちにハンドサインを送った。
見えないはずだが、気配で伝わったらしい。雪を踏む音が止まる。
その時、反対側の斜面から爆音が響いた。
パン、パン、と乾いた破裂音。
続いて、ドラム缶を叩くような乱暴な音がこだまする。
「始まったわ」
私はニヤリとした。
「ボリスたちが派手にやってる。『祭りだ!』って叫んでるのが聞こえるわ」
敵の思考が揺らぐ。
――襲撃だ。
――正面から来た。
――迎え撃て。
「気が逸れた。今だ」
レオが飛び出した。
彼は雪煙を巻き上げながら、白い闇の中へ突っ込んでいく。
見張りの二人が気づくのと、レオが間合いを詰めるのは同時だった。
銃声はしない。
ドサッ、という重い音が二つ重なり、気配が消失する。
首筋への打撃。一撃で意識を刈り取った音だ。
「クリアだ。進め」
レオの声。
ダリオとその部下たちが、雪崩のように小屋へ殺到する。
*
廃鉱山の作業場は、銃撃戦の混乱にあった。
正面入り口ではボリスたちが松明を振り回し、敵の銃火を引きつけている。
私たちはその隙に、裏口から建物内部へ侵入した。
中は薄暗く、オイルランプの光が揺れている。
外の寒さが嘘のような熱気。
木箱をバリケードにした敵兵たちが、正面に向かって銃を撃ちまくっている。背後は無防備だ。
「……レオ、左の箱の裏」
私はレオの肩を叩いた。
「弾切れよ。『クソ、予備がない』って焦ってる」
レオは走った。
箱の裏に回り込み、銃身を掴んで引き上げる。
敵兵がバランスを崩したところへ、ブーツの底を叩き込んだ。
男が吹き飛ぶ。
「後ろだ! 後ろから来たぞ!」
誰かが叫んだ。
敵が振り返る。
だが、狭い通路での乱戦は、数よりも個の戦闘力が物を言う。
ダリオの手下たちが、棍棒とナイフで襲いかかる。彼らは路地裏の喧嘩のプロだ。接近戦なら正規兵にも引けを取らない。
私は物陰に隠れ、戦況全体を俯瞰した。
右。二階のキャットウォーク。
金属の上を走る、軽い足音。
――逃がさない。
――司令官を狙う。
――あの男だ。
殺意のベクトルが、レオに向いている。
「レオ! 上!」
私は叫んだ。
「二階の手すり! 狙ってる!」
レオは上を見上げもせず、即座に横へ転がった。
直後、彼がいた場所の床板が弾け飛ぶ。
ライフル弾だ。
レオは転がりながら姿勢を立て直し、奪った拳銃を上に向けて発砲した。
一発。
上から呻き声がして、ライフルが落ちてきた。
ガチャンと床にぶつかる。
「……いい耳だ」
レオは立ち上がり、私を見た。
「次は」
「奥の部屋」
私は一番大きな扉を指差した。
「そこに親玉がいる。逃げる準備をしてるわ。『裏帳簿と金貨だけ持て』って部下に命令してる」
レオは弾倉を交換した。
カチャリ、と硬質な音が響く。
「逃しはしない。給料分の働きはしてもらう」
彼は扉に向かって歩き出した。
ダリオたちが残りの雑魚を片付けている。
私はレオの背中を追い、重厚な木の扉の前へ立った。
「蹴破るぞ」
「どうぞ。修理代は請求しないわ」
レオが右足を振り上げ、蝶番のあたりを蹴り抜いた。
バギッ、という破壊音と共に扉が開く。
部屋の中は、質素なオフィスだった。
机の上には書類が散乱し、壁際の金庫が開け放たれている。
部屋の中央に、一人の男が立っていた。
厚手のコートに、蛇の刺繍が入った腕章。
手には大型の拳銃を持ち、こちらの眉間に狙いをつけていた。
「……動きが早いな」
男が低い声で言った。
顔に傷がある。歴戦の古傷だ。
「ただの野良犬かと思ったが、飼い主は優秀らしい」
「犬じゃない」
レオは銃を下ろさずに部屋に入った。
「市場の掃除屋だ。不法投棄の罰金を払ってもらう」
「罰金か」
男は鼻で笑った。
「その減らず口、どこかで聞いたことがある」
男の視線が、レオの背後にいる私に向けられた。
私の姿を見た瞬間、彼の手元が微かに揺れた。
――銀の耳。
――灰色の目。
――間違いない。
男の思考が、驚愕に染まる。
「……お前か」
男が私を見た。
「報告にあった『耳のいい子供』というのは。まさか、こんな北の果てに逃げ込んでいたとはな」
「人違いじゃない?」
私はレオの影から顔を出した。
「私はただのレティよ。探し物屋の」
「嘘をつくな!」
男が声を荒げた。
「その顔、忘れるはずがない。コーデリア様の面影そのままだ!」
彼は銃口をレオではなく、私に向けた。
「生きていたのか……『アナスタシア』王女!」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた気がした。
私の心臓が早鐘を打つ。
王女。
やはり、そうなのか。
死体たちが囁き、手配書に書かれていた名前。それは、私自身の呪い。
男は恍惚とした表情で一歩踏み出した。
「我らが『蛇』は、貴女を探し続けていた。貴女こそが、我々の大義を正当化する唯一の『鍵』だ!」
「……くだらん」
冷ややかな声が、男の熱狂を断ち切った。
レオニスが動いた。
発砲ではない。
彼は一足飛びに距離を詰め、男の銃を持った手を左手で払いのけた。
銃弾が天井に逸れる。
男が反応するより早く、レオニスの右拳が男の顎を捉えた。
ゴッ。
鈍い音がして、男の言葉が強制的に中断される。
男はよろめき、机に背中を打ち付けた。
「貴様……! 王女に何という無礼を……」
男が口から血を吐きながら睨みつける。
レオニスは男の胸倉を掴み、顔を近づけた。
その瞳は、猛吹雪よりも冷たかった。
「訂正しろ」
レオニスがドスを聞かせた声で言った。
「こいつは王女でもなければ、お前たちの道具でもない」
彼は振り返り、私を見た。
「こいつはレティだ。俺の相棒で、優秀な探知機で、ジャムにうるさいだけの小娘だ」
「……そうよ」
私はポケットから飴の缶を取り出し、振ってみせた。
カシャカシャと軽い音がする。
「王冠なんて持ってないわ。持ってるのは、砕けた飴と借金だけ」
男は何かを言い返そうとしたが、レオニスが追撃の拳を腹に叩き込んだ。
「ぐふっ……」
男は白目を剥き、崩れ落ちた。
彼が持っていた「過去の亡霊」という物語も、一緒に床に転がった。
「……終わりだ」
レオニスは手を払い、男を跨いだ。
「ダリオたちを呼べ。後始末の時間だ」
私は倒れた男を見下ろした。
彼の懐から、一枚の紙が覗いている。
あの手配書だ。
私はそれを抜き取り、近くのランプの火にかざした。
紙が黒く焦げ、私の似顔絵と「アナスタシア」という名前が灰になって崩れていく。
「さよなら、お姫様」
私は灰を床に落とし、靴底で踏みにじった。
「私はここで、泥にまみれて生きていくの」
外の銃声は止んでいた。
窓の外では、まだ吹雪が続いていたが、部屋の中には静寂と、勝利の安堵だけが漂っていた。




