第50話 冷えた脂
部屋の隅で、縛られた男が呻き声を上げた。
意識が戻ったらしい。
私はスープの入った椀を置き、男の足元へ近づいた。
彼のブーツは雪で濡れていたが、靴底の溝には、街中の泥とは違う色の土が挟まっている。赤茶色の、粘土質の土だ。
「……おはよう。気分はどう?」
私が覗き込むと、男は焦点の定まらない目で私を睨み、何かを叫ぼうとした。
だが、口には私がさっき突っ込んだボロ布が詰まっている。くぐもった「うー」という音が漏れるだけだ。
「静かにして。近所迷惑よ」
私は男のブーツのつま先を指で弾いた。
革の感触。
そこから、彼がここに来る前に踏みしめていた場所の「音」が再生される。
ザク、ザク。
深い雪を踏む音。
風の音は街中よりも強く、木々が擦れ合う音が混じっている。
――寒い。指が動かない。
――見張り交代だ。小屋に戻る。
――犬が吠えている。餌をやれ。
「……山ね」
私はレオを見た。
彼は窓際で、奪った拳銃の手入れをしていた。
「北の山岳地帯。犬の鳴き声と、松の木の擦れる音がする。それに、この土は鉱山跡地のものだわ」
レオはスライドを戻し、カチャリと音をさせた。
「北の古鉱山か。廃坑になって久しいが、作業小屋は残っているはずだ」
「そこがアジトよ。暖炉の火が見える。『暖かい』って記憶が残ってるもの」
男が目を見開いて暴れ出した。
図星らしい。
私は彼の肩を軽く叩いた。
「暴れないで。あんたの役目はもう終わり。あとはここで、憲兵が来るまで震えていればいいわ」
レオが立ち上がり、コートを羽織った。
その動作には、市場で看板を持っていた時の気だるさはない。
「行くぞ、レティ」
「どこへ? 山登りには装備が足りないわよ」
「兵隊を集める。俺たち二人で山を包囲することはできん」
私は冷え切って白い膜が張ったスープを一気に飲み干し、立ち上がった。
腹は満ちた。
次は、この街の「顔役」たちを腹一杯にさせる番だ。
*
夜の酒場は、熱気と紫煙で視界が霞んでいた。
ギルド長のダリオは、奥のボックス席で部下たちと賭けカードに興じていた。
私たちが姿を見せると、彼の顔から血の気が引いたのがわかった。
カードを持つ手が止まる。
「……また来たのか」
ダリオが顔を引きつらせて笑った。
「生ゴミの掃除当番はちゃんと守っているぞ。何の用だ」
レオは無言でテーブルに近づき、ダリオの手元にあるカードの山の上に、一枚の紙を叩きつけた。
さっきの男が持っていた手配書の燃え残りだ。
私の顔と、蛇の紋章が描かれている。
「仕事だ」
レオが短く告げた。
「この街に『蛇』が巣食っている。密輸を行い、余所者の暗殺者を送り込んでいる。お前のシマでな」
ダリオは紙を覗き込み、眉をひそめた。
「蛇……? ああ、最近北の山に入り浸っている連中か。ただの運び屋だと思っていたが」
「殺し屋だ。俺たちを狙ってきた」
「そいつはご愁傷様だが、俺たちには関係ない」
ダリオは肩をすくめた。
「奴らは金払いがいい。客を追い出す理由は……」
「ルルちゃん」
私が横から囁くと、ダリオがビクリと跳ねた。
「……な、なんだ」
「奴らがこの街を支配したら、あんたの愛人の秘密なんて、一瞬で奥さんの耳に入るわよ」
私は脅した。
「奴らは情報を武器にするプロだもの。あんたの弱みを握って、ギルドごと乗っ取る気満々よ」
根拠はない。ハッタリだ。
だが、ダリオのような男には、遠くの正義よりも近くの恐怖が効く。
彼は額の汗を拭い、テーブルを拳で叩いた。
「……わかった、わかったよ!」
ダリオは部下たちに怒鳴った。
「野郎ども、カードは終わりだ! 武器を持て! 商売敵を叩き潰しに行くぞ!」
店の中がざわめき、男たちが立ち上がる。
そこへ、入り口の扉が開き、毛皮のコートを着た大男が入ってきた。
市場組合長のボリスだ。
後ろには、肉切り包丁や鉄パイプを持った市場の男たちが控えている。
「話は聞かせてもらった」
ボリスがパイプを咥えたまま言った。
「運河の密輸品、あれは許せん。俺たちの商売道具である水路を汚す奴らは、魚の餌にしてやる」
役者は揃った。
ゴロツキと、市場の荒くれ者たち。
正規軍とは程遠い、烏合の衆だ。
だが、レオニスは彼らを見回し、満足げに頷いた。
「数は十分だ。作戦を説明する」
*
酒場の床に、炭で略図が描かれていた。
北の山、廃鉱山へのルート、そしてアジトの位置。
レオニスが指示棒代わりに火掻き棒を持ち、説明する。
「敵の数は推定二十。武装は小銃と、密輸品の新型火器だ」
レオニスの声は静かだが、酒場の喧騒を圧して響いた。
男たちが私語をやめ、彼に注目する。
その立ち姿は、便利屋の「レオ」ではなく、かつての「将軍」そのものだった。
「正面から行けば撃ち落とされる。だが、奴らはこの寒さと雪を過信している。見張りは最小限だ」
彼は火掻き棒で山の裏側を指した。
「市場チームは、正規のルートを偽装して進め。松明を焚き、わざと音を立てろ。囮だ」
ボリスがニヤリと笑う。
「派手な喧嘩は得意だ。任せとけ」
「その隙に、ギルドチームは裏の獣道から接近する。雪深い場所だが、お前たちは地元の道を知っているはずだ」
ダリオが胸を張った。
「俺の庭だ。目隠ししてても歩ける」
「包囲が完了したら、合図と共に突入する。目的は制圧だ。無駄な殺生はするな」
レオニスは男たち一人一人の顔を見た。
「お前たちの武器は貧弱だ。包丁や棍棒で銃には勝てない。だから、闇と地形を使え。近づくまでは絶対に姿を見せるな」
男たちが頷く。
さっきまでのダラけた空気が消え、一種の緊張感が漂い始めていた。
彼らは気づいていないだろうが、すでにレオニスの指揮下に入っている。
カリスマとは、こういうことを言うのだろう。
「……あんた、本当に何者だ?」
ボリスが呆れたように聞いた。
「ただの用心棒にしちゃ、戦慣れしすぎている」
「今は、ただの『レオ』だ」
レオニスは炭で描いた地図を靴底で消した。
「行くぞ。雪が強くなってきた。足跡を消すには好都合だ」
男たちが雄叫びを上げ、酒場を出て行く。
私はレオニスの横に並んだ。
「随分と生き生きしてるわね、ボス。探し物屋より向いてるんじゃない?」
「性分だ」
彼は上着の襟を立て、ドアへ向かった。
「だが、報酬は現物支給だ。割に合わん」
「私が交渉してあげるわよ」
私は彼の背中を叩いた。
「成功したら、ダリオのヘソクリから特別ボーナスを出させるから」
私たちは夜の街へ出た。
空からは、大粒の雪が降り注いでいる。
それは、これから流れる血を隠すための白い幕のように見えた。




