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第5話 特別な報酬

 最後の患者は、足の指を失った老兵だった。

 彼は毛布を頭まで被り、震えている。

 私はベッドの鉄枠に手を触れた。冷たい金属の感触が、指先の熱を奪う。

 耳を澄ます。


 ――寒い。指が痛い。

 ――家に帰れば、孫が待っている。

 ――菓子を買って帰ると約束したんだ。


 「生きてるわ」

 私は医務官に親指を立てて見せた。

 「孫にお土産を買う気力が残ってる。痛みはあるけど、死にたがってはいない」


 医務官が頷き、老兵のカルテに何かを書き込む。

 私は近くの丸椅子に座り込んだ。

 膝が笑っている。長時間立ちっ放しだったせいで、ふくらはぎがパンパンに張っていた。

 懐のシロップはもう空だ。


 教会のステンドグラスの外は、すでに藍色に沈んでいる。

 カンテラの煤けた匂いが、消毒液の刺激臭と混ざり始めていた。


 「終わりだ」

 レオニスの声が頭上から降ってきた。

 顔を上げると、彼は懐中時計の蓋をパチンと閉めるところだった。

 「予定時間を三十分超過している。撤収する」


 「……残業代、請求書に追加しておくから」

 私は椅子の背もたれを掴んで立ち上がった。

 視界が少し揺れる。

 空腹だ。私の燃費は悪い。


 「歩けるか」

 「スープとパンがあれば、走ることだってできるわ」

 「なら食堂まで自力で行け」


 レオニスは背を向け、出口へと歩き出した。

 私は舌打ちを一つ落とし、重たい足を引きずって彼を追った。


 *


 野営地の食堂テントは、湯気と喧騒で満ちていた。

 長机には兵士たちが肩を寄せ合い、金属製の皿をスプーンで叩く音が響いている。

 私たちが一歩入ると、入り口近くの数人が会話を止めた。

 視線が刺さる。

 「毒を見つけた女」あるいは「死体と喋る女」という噂は、すでに広まっているらしい。

 好意的な視線ではない。気味の悪い珍獣を見る目だ。


 レオニスは意に介さず、配給の列に並んだ。将軍だろうと特別扱いはしないのが、この部隊の流儀らしい。

 私もトレーを受け取り、彼の後ろに続く。


 配給係の兵士が、寸胴鍋からおたまでシチューをすくい上げた。

 茶色い液体の中に、ジャガイモと得体の知れない肉片が浮いている。

 皿に注がれる重たい音。

 続いて、拳大の黒パンが二つ、無造作にトレーへ置かれた。


 「どうぞ、閣下」

 配給係がレオニスに敬礼する。

 私には、無言で顎をしゃくっただけだった。


 私たちはテントの隅、誰も座っていないテーブルを選んだ。

 椅子を引く音が、周囲の沈黙を強調する。


 「いただきます」

 私はスプーンを握り、シチューを口に運んだ。

 塩辛い。肉は硬く、ゴムを噛んでいるようだ。

 だが、熱量はある。胃に落ちた塊が、すぐにエネルギーに変わっていくのを感じる。


 レオニスは無言でパンを千切り、シチューに浸して食べている。

 彼の食事作法は、機械のように正確で無駄がなかった。

 一口のサイズが常に一定だ。


 「美味しい?」

 私は尋ねてみた。

 「栄養価は基準を満たしている」

 「味の話をしてるの」

 「味覚は生存に必須ではない」


 会話終了。

 私は肩をすくめ、硬い肉を奥歯で噛み砕いた。

 この男と食事を楽しむには、まだ修行が足りないらしい。


 その時、隣のテーブルから話し声が漏れ聞こえてきた。


 「……聞いたか? 三番隊の連中、幽霊を見たって騒いでる」

 「東の宿舎だろ。夜中に女の泣き声がするって」

 「あそこは元々、処刑場だったらしいからな」


 私の手が止まる。

 スプーンが皿の縁に当たり、カチンと高い音を立てた。


 「……ねえ、将軍様」

 私はレオニスを見た。

 「私の寝床、どこに手配したの?」


 レオニスはパンを口に運ぶ手を止めない。

 「東の空き宿舎だ。個室を用意させた」

 「却下」

 私は即答した。

 「無理よ。あそこ、うるさすぎる」


 「防音性は悪くないはずだが」

 「物理的な音の話じゃないわ。今、そこの兵士が言ってたでしょ。元処刑場だって」

 私は自分の耳を指差した。

 「私にとっては、スピーカーの真ん中で寝るようなものよ。『冤罪だ』とか『首が痛い』とか、一晩中聞かされたら発狂するわ」


 レオニスは初めてスプーンを置いた。

 ナプキンで口元を拭う。

 「では、どこなら寝られる」

 「死んでない場所。過去に人が死んでなくて、近くに重篤な怪我人もいない、クリーンな場所」


 彼は腕を組み、テントの天井を見上げた。

 この戦場で、そんな場所を探すのは至難の業だ。

 どこもかしこも、死と痛みの記憶で埋め尽くされている。


 「……私の執務テントに来い」

 彼は低い声で言った。

 「あそこは俺が着任してから設営した。地面も整地してある。過去の因縁は薄いはずだ」


 「将軍の部屋に同居? スキャンダルになるわよ」

 私は茶化した。

 「長椅子ソファがある。そこで寝ろ。俺は夜通し書類仕事があるから、ベッドは使わん」

 「あら、働き者」

 私は残りのパンをシチューで拭い取り、口に放り込んだ。

 「交渉成立ね。静寂を提供してくれるなら、枕の硬さには文句を言わないわ」


 *


 レオニスのテントに戻ったのは、消灯ラッパが鳴った直後だった。

 中は相変わらず、紙とコーヒーの乾いた匂いがする。

 血や泥の臭いがない。それだけで、ここは聖域だった。


 「そこを使え」

 レオニスは入り口近くの革張りの長椅子を指差した。

 私は遠慮なく横になる。革が冷たいが、死者の声は聞こえない。

 遠くで砲撃の音が響いているが、それは物理的な音だ。耳栓をすれば防げる。


 レオニスは奥の机に向かい、ランプの明かりを調節した。

 カリ、カリ、とペン先が紙を引っ掻く音だけがリズムを刻む。


 私は目を閉じた。

 静かだ。

 頭蓋骨の中で反響していたノイズが、ようやく止まった。


 「……ねえ」

 私は目を開けずに声をかけた。

 「ん」

 レオニスは手を止めない。

 「あんたの周り、静かでいいわね」

 「褒め言葉として受け取っておく」

 「あと、少しだけいい匂いがする」

 「石鹸だ。補給物資に余りがあった」

 「へえ。今度私にもちょうだい」


 返事はなかった。

 代わりに、ページをめくる音がした。

 拒絶ではない沈黙。

 私は外套を頭まで引き上げ、深く息を吸った。

 今日初めて、私は「生存」ではなく「休息」のために目を閉じた。

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