第49話 雪夜のフライパン
部屋の中は、煮崩れたジャガイモの匂いで満たされていた。
暖炉の火は弱く、薪の節約のために炎というよりは熾火の状態を保っている。
私は鍋の前に座り込み、おたまで底をかき回していた。
とろみがついたスープ。具材は頂き物のジャガイモと、市場の八百屋が「傷んでるからやる」と投げつけてきた玉ねぎだけだ。
「……肉が欲しいわ」
私は独り言のように呟いた。
「羊でも豚でも、ネズミでもいい。動物性タンパク質がないと、思考が植物になりそう」
窓際で、レオが窓の隙間を目張りしていた。
古い新聞紙を水で濡らし、木枠の隙間に詰め込んでいく。地味だが、北国の夜を生き抜くための必須作業だ。
彼は作業の手を止めずに答えた。
「贅沢を言うな。昨日は魚のアラ汁だっただろう」
「あれは骨と皮のスープよ。食べたうちに入らない」
私は味見をした。塩気が足りないが、塩も貴重品だ。
諦めて火から下ろそうとした時、レオの動きが止まった。
彼は手に持っていた濡れた新聞紙を床に置き、ゆっくりと立ち上がった。
その動作には音がない。
彼は私に「静かに」というハンドサインを送ると、流し台の横に立てかけてあった鉄のフライパンを手に取った。
調理器具として使うには底が焦げ付きすぎている代物だ。
「……何?」
私は口パクで聞いた。
レオは答えず、玄関のドアを顎でしゃくった。
私は耳を澄ませた。
外は吹雪だ。風が建物を叩く音。窓ガラスがガタガタと鳴る音。
だが、その轟音の隙間に、異質な音が混じっていた。
ギュッ。
雪を踏む音。
廊下ではない。外の非常階段だ。
革底のブーツが、凍った鉄の階段を一段ずつ、慎重に登ってくる。
――静かに。
――殺せ。
――報酬は弾む。
「……客ね」
私は囁いた。
「招かれざる客。殺意を手土産に持ってる」
レオは頷き、ドアの蝶番の側に身を潜めた。
フライパンを構える。
銃ではない。ナイフでもない。
この部屋にあるもので、最も殺傷能力が高く、かつリーチのある鈍器。
ドアノブがゆっくりと回った。
鍵はかかっている。
カチャリ、と小さな金属音がする。ピッキングだ。
手慣れている。数秒もしないうちに、ロックが外れる音がした。
ドアが音もなく開く。
外の冷気と共に、黒い影が滑り込んできた。
厚手のコートを着た男だ。手には消音器をつけた拳銃が握られている。
男が部屋の中に踏み込んだ、その瞬間。
「いらっしゃい」
レオが影から飛び出した。
振り抜かれたフライパンが、空気を切り裂く音を立てる。
ゴァン!
重い打撃音が炸裂した。
フライパンの底が、男の手首を直撃する。
骨が砕けるような嫌な音がして、拳銃が床に飛んだ。
「ぐあぁっ!」
男が悲鳴を上げ、手首を押さえてうずくまる。
レオは追撃の手を緩めない。
返しの動作で、今度はフライパンの側面を男の側頭部に叩き込んだ。
ドゴッ。
男は白目を剥き、糸が切れたように床へ崩れ落ちた。
「……手荒な歓迎ね」
私はおたまを持ったまま立ち上がった。
「調理器具が曲がっちゃったじゃない。弁償してよね」
「頭蓋骨よりは硬かったようだ」
レオはフライパンの歪みを確認し、流し台に戻した。
そして、気絶した男の懐を探る。
手際がいい。まるで市場で野菜の鮮度を確かめるような冷静さだ。
ポケットから出てきたのは、予備の弾倉、数枚の紙幣、そして折りたたまれた一枚の紙。
「……これを見ろ」
レオが紙を広げ、私に見せた。
それは、粗末な紙に印刷された手配書だった。
似顔絵が描かれている。
特徴をよく捉えた絵だ。大きな目、少し跳ねた髪、不機嫌そうな口元。
下には金額が書かれている。
目が飛び出るような高額だ。
「私じゃない」
私は紙を奪い取った。
「これ、私の顔よ。でも、名前が違うわ」
似顔絵の下には『レティ』ではなく、別の名前が記されていた。
『アナスタシア』。
そして、発行元の印章はない。
代わりに、あのマークがスタンプされていた。
絡み合う二匹の蛇。
「……密輸団のただの用心棒かと思っていたが」
レオが倒れている男を見下ろした。
「どうやら、俺たちは狩られる側のようだ。それも、軍や警察ではなく、もっとたちの悪い連中に」
「アナスタシア……」
私はその名前を口の中で転がした。
以前、死体が私をそう呼んだ。
そして今、この刺客もその名前の賞金首を狙ってここに来た。
「ねえ、レオ」
私は手配書をくしゃくしゃに丸め、暖炉の火に放り込んだ。
紙がチリチリと燃え上がり、私の似顔絵が灰になっていく。
「この街、もう安全じゃないみたい」
「ああ。ここがバレた以上、次が来る」
レオは男の手足を縛るためのロープを探し始めた。
「逃げるか?」
私は燃える火を見つめた。
逃げる。また?
せっかく手に入れた部屋だ。ようやく見つけた、オートミール以外のものが食べられる生活だ。
それを、またあいつらに奪われるのか。
耳を澄ます。
外の吹雪の音。
その向こうから、無数の「敵意」が近づいてくる気配はまだない。
だが、時間の問題だ。
「……嫌よ」
私は顔を上げた。
「逃げるのは飽きたわ。ここを追い出されたら、次は雪山で寝る羽目になるもの」
「ではどうする」
「決まってるじゃない」
私は鍋の中のスープをかき混ぜた。
ジャガイモが崩れ、とろみが増している。
「こっちから行くのよ。元を絶ち切らないと、枕を高くして眠れないわ」
私は空の椀にスープを注いだ。
「まずは腹ごしらえよ。冷めたスープほど惨めなものはないからね」
レオは縛り上げた男を部屋の隅に転がすと、無言で椀を受け取った。
外では風が唸り声を上げている。
それは、これから始まる長い夜のファンファーレのように聞こえた。




