第48話 凍った水面
市場の風除けテントの陰で、私は紙袋に入った焼き栗の皮を剥いていた。
焦げた殻がパキリと割れ、中から黄色い実が顔を出す。湯気が白い線を描いて空気に溶けた。
熱い実を口に放り込む。
ホクホクとした甘みが広がり、寒さで強張った頬の内側を緩ませる。
「……平和ね」
私は次の栗に手を伸ばした。
「客は来ないけど、文句を言ってくるゴロツキもいない。理想的な職場環境よ」
隣で腕を組んで立っているレオは、退屈そうに空を眺めていた。
彼の視線は、市場の屋根に止まったカラスの動きを追っている。
「平和すぎて体が鈍る。薪割りのバイトでも探すか」
「やめて。あんたが本気で斧を振ると、薪じゃなくて台座の方が割れるのよ。弁償代が馬鹿にならないわ」
その時、市場の奥から大柄な影が近づいてきた。
毛皮のコートを着た男。組合長のボリスだ。
彼はいつものパイプを咥えていなかった。眉間に深い皺を刻み、足取りも重い。
「……レオ、レティ。暇か」
ボリスが私たちの前で立ち止まった。
「見ての通りです。栗の皮剥きで忙しいですが」
私が答えると、彼は苦笑もせずに懐から封筒を出した。
ずっしりと重い音がして、私の膝の上に置かれる。
「仕事だ。受けてくれ」
「内容は?」
レオが視線をカラスからボリスへ移す。
「夜の運河だ」
ボリスは声を潜めた。
「北側の区画、今は使われていない古い水門の近くだ。最近、夜中になると妙な音がするという苦情が出ている」
「音?」
「ああ。氷が割れるような音でもないし、風の音でもない。もっと重くて、嫌な音だそうだ。近所の婆さん連中は『水魔が出た』と騒いでいる」
私は栗を食べる手を止めた。
水魔。あるいは幽霊。
そういう類の話なら、私の専門分野だ。
「わかったわ。除霊なら別料金だけど」
「何でもいい。とにかく原因を突き止めてくれ。漁師たちが気味悪がって、夜釣りに出たがらないんだ」
*
日が落ちると、北国の寒さは牙を剥く。
吐く息が凍りつき、纏つわりつくような白い霧になる。
私たちは防寒のためにコートの下に新聞紙を重ね着して、北の運河へと向かった。
現場は静まり返っていた。
運河の水面は分厚い氷に覆われ、その上に雪が積もっている。
月明かりがない。曇った空が、世界を灰色に塗り潰していた。
「……何も聞こえないな」
レオが氷の上に降り立ち、靴底で硬さを確かめた。
「厚さは十分だ。トラックが乗っても割れん」
私は岸辺の杭に腰掛け、耳当てをずらした。
風の音。
遠くの犬の遠吠え。
そして、氷の下を流れる水の、くぐもった音。
耳を澄ます。
自然音の周波数をカットし、異質なノイズを探る。
――重い。
――滑らせろ。
――音を立てるな。
聞こえた。
現在進行形ではない。昨夜、あるいはその前にここを通った「物」の記憶。
氷の表面に、見えない轍として残っている。
「……レオ」
私は氷の上を指差した。
「ここ、誰か通ってるわ。それも、かなりの重量物を引きずって」
レオがその場所にかがみ込み、ライトを当てた。
新雪が積もっているが、その下の氷の表面に、無数の擦り傷がついているのが見える。
「ソリか」
「ええ。木箱を積んだソリ。一台じゃない。何台も」
私は氷の上に降りた。
靴底から伝わる冷気が、足の指を麻痺させていく。
傷跡の一つに手を触れる。
冷たい。
そこから、運搬されていた「荷物」の中身の音が聞こえてくる。
カチャリ。カチャリ。
金属が触れ合う音。
油の匂い。
そして、詰め込まれた火薬の沈黙。
――使え。撃て。
――血を吸わせろ。
「……物騒な荷物ね」
私は手を引っ込めた。
「野菜や魚じゃないわ。銃よ。それも新品の」
レオの顔色が硬くなった。
「密輸か。このルートを使えば、検問を通らずに街へ持ち込める」
「でも、誰が? ゴロツキにしては装備が良すぎるわ」
私はさらに耳を澄ませた。
銃そのものの声ではない。
それを梱包した木箱の、焼印の記憶を探る。
焼き付けられた熱。その形。
――二匹。
――絡み合う。
――我らは影なり。
背筋に悪寒が走った。
寒さのせいではない。
王都で何度も見た、あの忌まわしい紋章の記憶が蘇ったからだ。
「……『蛇』よ」
私が告げると、レオが鋭く息を吸った。
「ここにか」
「ええ。木箱が言ってる。『二匹の蛇の刻印を押された』って」
レオはライトを消した。
闇が戻る。
だが、その闇はさっきまでの静寂なものではなく、得体の知れない敵意を含んだものに変わっていた。
「王都を追われた残党か、それとも新たな拠点か」
レオが低く呟く。
「いずれにせよ、ただの密輸ではない。奴らはこの街で何かを始めようとしている」
彼は立ち上がり、周囲を警戒した。
「戻るぞ。ボリスに報告だ。これは市場の用心棒の手には余る」
私は氷の上を歩き出した。
足元の雪が、ギュッ、ギュッ、と音を立てる。
その時、風に乗って微かな音が聞こえた。
氷の音ではない。
川上の水門の方角から、金属の蝶番がきしむ音。
誰かが、そこにいる。
「……レオ」
私は彼の袖を引いた。
「今夜も来るみたい。水門の影、心臓の音が二つ」
レオは私を抱き寄せ、岸辺の岩陰に身を隠した。
「見るか」
「見ないわ。聞くだけにしておく。関わったら、またあの泥沼に戻る気がする」
私たちは息を殺して待った。
やがて、闇の中から黒い影が現れた。
白い雪の上を、ソリを引いた男たちが音もなく滑っていく。
彼らは一言も発しない。
ただ、その荷台からは、戦争の匂いが濃厚に漂っていた。
平和な隠居生活は、どうやら思ったよりも早く終わりを告げようとしているらしい。
私はポケットの中で、冷え切った焼き栗の殻を握り潰した。




