第47話 床下の恋人
ドアを開けた瞬間、鼻孔を突き刺したのは強烈な生臭さだった。
私は反射的に袖で鼻を覆い、足元を見た。
アパートの廊下、私たちの部屋のドアの前に、山ができていた。
魚の内臓、腐ったキャベツの芯、そして泥にまみれた雪の塊。
丁寧に積み上げられたその山頂には、炭で汚れた板切れが突き刺さっている。
『出て行け、泥棒』と書かれていた。
「……おはよう、レオ」
私は靴先でキャベツの芯を突いた。
「今日の朝食は随分と豪華ね。市場の廃棄物がデリバリーされてるわ」
レオは私の後ろから顔を出し、無言で惨状を見下ろした。
彼は眉一つ動かさず、部屋の隅に立てかけてあったスコップを手に取った。
「有機物だ。乾燥させて燃やせば燃料になる」
「正気? 部屋中が魚市場の掃き溜めみたいな臭いになるわよ」
レオはスコップで汚物をすくい上げ、持ってきた麻袋に詰め込み始めた。
淡々とした作業だ。怒りも焦りもない。ただの清掃業務として処理している。
「誰の仕業かは明白だ」
彼が手を止めずに言った。
「この街で『余所者』を排除したがる連中は一つしかいない」
「情報ギルドね」
私は壁に残った濡れたシミを睨んだ。
ここ数日、私たちが市場のトラブルを解決するたびに、彼らの視線が厳しくなっていた。
「ショバ荒らし」だと陰口を叩かれているのは知っていたが、実力行使に出るとは思わなかった。
耳を澄ます。
ゴミの山から、運んできた男たちの残響が聞こえる。
――臭せぇ。
――ギルド長の命令だ。たっぷりと置いてやれ。
――これでビビって逃げ出せば、ボーナスが出る。
「……ボーナス目当ての雑用係が二人」
私は鼻を押さえたまま言った。
「昨日の深夜に来たわね。足音が残ってる。革底のブーツと、底が剥がれかけたゴム長靴」
レオは最後の魚の頭を袋に放り込み、口を縛った。
「掃除は終わりだ。礼に行かなきゃならんな」
「礼?」
「ゴミの分別ルールを教えてやる必要がある」
彼はコートを羽織り、スコップを元の位置に戻した。
その目は、ゴミを見る時よりも冷たく、そして鋭かった。
*
街の中央広場に面した酒場の二階。
そこが自治都市の「情報ギルド」の本拠地だった。
看板には『生活相談所』と書かれているが、実態はゴロツキの斡旋と、ゆすりのネタを売買する場所だ。
木の階段を登ると、安酒とタバコの臭いが漂ってきた。
レオがドアをノックもせずに開ける。
中の喧騒が一瞬で止んだ。
昼間から賭けカードに興じていた男たちが、一斉にこちらを振り返る。
部屋の奥、一番大きな机に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
ギルド長のダリオだ。
脂ぎった禿頭に、立派なカイゼル髭。指には金色の指輪がいくつも光っている。
彼はレオの姿を認めると、口の端を歪めて笑った。
「おや、何の用だね? 便利屋の兄ちゃん」
ダリオは手元のコインを弄びながら言った。
「仕事の紹介なら間に合っているよ。それとも、街を出る挨拶かな?」
レオは部屋の中央まで進み、立ち止まった。
「届け物の礼に来た」
「届け物? 何のことやら」
「生ゴミだ。あいにく俺たちは好き嫌いが多くてな。返品したい」
周囲の男たちが立ち上がり、椅子を蹴る音が響く。
威嚇だ。
だが、レオは彼らを見ようともしない。視線はダリオに固定されている。
「威勢がいいな」
ダリオが鼻を鳴らした。
「ここは俺の庭だ。俺がカラスと言えば白いカラスも黒くなる。お前たちがどう足掻こうと、この街で商売はさせん」
彼は机に足を乗せた。
「悪いことは言わん。さっさと荷物をまとめて消えな。次はゴミじゃなく、火種が投げ込まれるかもしれんぞ」
脅迫だ。
レオの肩がわずかに動く。実力行使に出る合図だ。
私はレオの前に出た。
「待って、レオ。暴力は経費がかかるわ」
「言葉で通じる相手には見えんが」
「通じる言葉を選べばいいのよ」
私はダリオの机に近づいた。
周囲の男たちが身構えるが、子供一人が近づいたところで警戒心は薄い。
私は机の縁に手を置いた。
分厚いオーク材の机。
そこから、ダリオの「秘密」が木目を通して伝わってくる。
耳を澄ます。
机の引き出しではない。もっと下。
床板の下だ。
――隠せ。バレるな。
――妻には内緒だ。
――今夜、ルルに会うための金だ。
「……へえ」
私は口元を緩めた。
そして、ダリオの顔を覗き込む。
「ギルド長さん。随分と熱心に貯金してるのね」
「あ?」
ダリオが眉をひそめる。
「その右足の下。床板が二枚、外れるようになってるでしょ」
私が指差すと、ダリオの足がビクリと跳ねた。
「中には革袋が三つ。中身はギルドの運営資金じゃなくて、あんたのヘソクリ」
部屋がざわつく。
手下の男たちが、疑念の目でダリオを見る。
「お頭……ヘソクリって?」
「で、でたらめを言うな!」
ダリオが顔を赤くして怒鳴った。
「ガキの戯言だ! つまみ出せ!」
「まだ続きがあるわ」
私は声を張り上げず、ダリオにだけ聞こえるように囁いた。
「その金、奥さんには内緒なんでしょ? だって、使い道が『ルルちゃんへのプレゼント代』だもの」
ダリオが凍りついた。
口を開けたまま、石像のように固まる。
「胸ポケットの手紙が言ってるわよ」
私は彼の胸元を指差した。
「甘い香水の匂いがする便箋。『ダリオちゃん、昨夜は素敵だったわ。約束の毛皮のコート、楽しみにしてる』……ですって」
ダリオが慌てて胸ポケットを押さえた。
その反応が、何よりの自白だった。
「奥さん、怖いんでしょう?」
私は畳み掛けた。
「噂じゃ、この街の食肉組合の娘さんだとか。包丁捌きがプロ級だって聞いたけど」
ダリオの顔色が、赤から青、そして土気色へと変わっていく。
彼は震える手で机の上の水を飲もうとして、グラスを倒した。
水が広がり、床に滴り落ちる。
「……わ、わかった」
ダリオが絞り出すような声で言った。
「何が望みだ」
「ゴミの掃除当番」
レオが後ろから口を挟んだ。
「それと、今後一切の業務妨害の禁止。俺たちの商売に口を出すな」
「……承知した」
ダリオは項垂れた。
「手出しはさせない。だから、その話は……」
「墓場まで持っていくわ。あんたが約束を守る限りはね」
私は机から離れた。
手下の男たちは、何が起きたのかわからず顔を見合わせている。
彼らのボスが、たった数言で陥落した理由を理解できていないのだ。
「帰るぞ」
レオが扉を開けた。
私たちは背を向け、堂々と部屋を出た。
背後で、ダリオが部下たちに「見るな! 仕事に戻れ!」と八つ当たりする声が聞こえた。
*
夕方、アパートのドアを叩く音がした。
レオが警戒しながら開けると、そこには若い男が立っていた。
今朝、ゴミを置いていった実行犯の一人だ。
彼は顔を引きつらせながら、大きな菓子折りを差し出した。
「ギ、ギルド長からです! これでお近づきの印に、と!」
男は箱を押し付けると、脱兎のごとく逃げ去った。
レオは箱を受け取り、怪訝な顔で中身を確認した。
「……焼き菓子だ。毒見はしていないが」
「大丈夫よ。あのギルド長に、毒を盛る度胸なんて残ってないわ」
私は箱の中から、砂糖のかかったパイを一つ摘み上げた。
齧り付く。
バターと、リンゴの甘酸っぱい味が広がる。
ルルちゃんとやらへの貢ぎ物が、こちらに回ってきたのかもしれない。
「美味しい」
私はパイをレオの口元に差し出した。
「ほら、食べて。労働の報酬よ」
レオは渋々といった様子で一口かじり、それから微かに口元を緩めた。
「……悪くない」
部屋はまだ魚臭かったが、甘いパイの香りが少しだけそれを中和してくれた。
これで、この街での足場は固まった。
少なくとも、正面から喧嘩を売ってくる馬鹿はいなくなったはずだ。




