第46話 市場の顔役
昨夜の羊肉のスープは、胃袋を満たしただけでなく、部屋の空気まで変えていた。
朝起きても、まだ微かに脂の甘い匂いが漂っている。
だが、鍋の底は空だった。
冷えた油が白く凝固し、鍋肌に張り付いているだけだ。
「……夢の跡ね」
私は鍋を指先でつついた。
「昨日の老婆は気前がよかったけど、今日はどうかしら。毎日指輪を落としてくれる人がいるとは思えない」
レオは窓際で、昨夜買った中古のカミソリを研いでいた。
革砥に刃を滑らせるシュッ、シュッという音が、静寂を切り刻む。
髭は剃り落とされ、彼の顔はまた以前のように鋭利な輪郭を取り戻していた。ただ、目つきだけは軍人時代の厳しさよりも、獲物を狙う猟犬のような飢えを帯びている。
「指輪でなくてもいい」
彼は刃の輝きを確認し、ポケットにしまった。
「財布、鍵、あるいは逃げた猫。探すものはいくらでもある」
「猫は嫌よ。引っ掻かれるし、心の声がわがままだもの」
私はコートを羽織り、空になった鍋を流し台に置いた。
水が出ない。
配管が凍っているのだ。
洗い物は後回しにするしかない。
「行くぞ。市場が開く」
レオがドアを開けた。
冷気が足元を這い、私たちは再び雪の積もる街へと踏み出した。
*
市場は昨日よりも活気づいていた。
荷降ろしの時間帯だ。
港から運ばれてきた木箱が山と積まれ、男たちが白い息を吐きながら怒号を飛ばし合っている。
魚の生臭さと、濡れた木材の匂い。
地面は踏み固められた雪が泥と混ざり、黒い氷となって靴底を滑らせる。
私たちは昨日と同じ、風除けのテントの陰に立った。
『探し物、承ります』の看板を掲げる。
しかし、誰も足を止めない。
皆、自分の荷物と足元に必死で、怪しい二人組になど構っていられないのだ。
「……暇ね」
私はあくびを噛み殺した。
「ねえ、レオ。用心棒の看板に変えない? あんたの体格なら、威圧感だけで商売になるわよ」
「無駄な暴力は燃費が悪い」
彼は腕を組み、市場全体を見渡していた。その目は客を探しているというより、監視カメラのように異常をスキャンしている。
その時、市場の奥から騒がしい音が聞こえてきた。
木箱が倒れる音。
ガラスが割れる音。
そして、恫喝する男の声。
――出せよ。
――あるのはわかってるんだ。
――ショバ代だ。払えなきゃ店を畳め。
私の耳が、男たちの思考を拾った。
興奮と、加虐的な快感。そして、少しの焦り。
彼らは酔っているわけではない。仕事として暴れている。
「……騒々しいな」
レオが視線を向けた。
「同業者か?」
「いいえ、もっと原始的な集金人よ」
人だかりの向こうで、数人の男たちが一軒の露店を取り囲んでいた。
乾物屋だ。
店主の老人が胸倉を掴まれ、商品である干し魚が雪の上に散乱している。
男たちは粗末な革ジャンを着て、腰には棍棒やナイフをぶら下げていた。地元のゴロツキだ。
「今月分だ! 先月も待ってやっただろうが!」
リーダー格の男が老人を揺さぶる。
「な、ないんだ。不漁続きで……」
「知るかよ。なら、そのコートを置いていけ」
周囲の商売人たちは、遠巻きに見ているだけで誰も助けようとしない。
関われば次は自分が標的になることを知っているからだ。
「……行くぞ」
レオが看板を私に持たせ、歩き出した。
「え? 助けるの? 報酬の約束もしてないのに」
「道が塞がれている。商売の邪魔だ」
彼は人混みを割って進んだ。
ゴロツキたちの背後に立つ。
「おい」
レオが短く声をかけた。
「通行の妨げだ。どけ」
リーダー格の男が振り返った。
自分より頭一つ分背が高いレオを見て、一瞬ひるんだが、すぐに虚勢を張り直す。
「あぁ? なんだテメェ。余所者か?」
男の手下が二人、左右に展開した。
棍棒を掌で叩き、威嚇音を立てる。
「兄ちゃん、怪我したくなかったら失せな。ここは俺たちのシマだ」
リーダーが老人の襟を放し、レオに向き直った。
彼は懐からナイフを取り出し、これ見よがしに刃を光らせた。
私は看板を持ったまま、少し離れた場所で見ていた。
耳を澄ます。
リーダーの男の筋肉が収縮する音。
アドレナリンが分泌され、心拍数が上がる音。
――刺すか? いや、脅すだけだ。
――ビビらせて金を取る。
――上着は高そうだ。剥ぎ取ってやる。
「……レオ」
私は小声で告げた。
「右のポケット狙ってるわよ。あんたの上着が欲しいんだって」
レオはため息をついた。
「安くない服だ。汚されるのは困る」
「なめてんのか!」
リーダーが激昂し、ナイフを突き出した。
素人特有の、大振りの突き。
レオは動じなかった。
半歩、左足を引く。
ナイフの切っ先が、彼のシャツの数センチ前を通過する。
その瞬間、レオの手が動いた。
打撃音はしなかった。
あったのは、流れるような動作だけだ。
レオは男の手首を掴み、ナイフの軌道に沿って引いた。
男の体が前のめりになる。
レオはそのまま男の肘を逆手で押さえ、手首を外側へ捻り上げた。
ボキッ。
乾いた小枝を踏むような音がした。
関節が可動域を超えた音だ。
「ぎゃあああっ!」
男の手からナイフが落ち、雪に埋まる。
彼は膝から崩れ落ち、レオに手首を掴まれたまま踊るように悶えた。
「離せ! 折れる! 折れてる!」
「折ってはいない。外しただけだ」
レオは冷静に言い、男を前方に突き飛ばした。
男は顔面から雪に突っ込み、動かなくなった。
残りの手下たちが凍りつく。
彼らの思考が一瞬で「攻撃」から「逃走」へと切り替わる音が聞こえた。
――やばい。
――プロだ。
――逃げろ。
「……まだやるか」
レオが一歩踏み出す。
手下たちは悲鳴を上げ、リーダーを引きずって逃げ出した。
あっという間に人混みの中に消えていく。
周囲が静まり返った。
商売人たちが、呆気にとられた顔でレオを見つめている。
助けられた乾物屋の老人は、へたり込んだまま震えていた。
「……手際がいいわね」
私は近づき、落ちていたナイフを拾い上げた。
刃こぼれしている安物だ。
「でも、これでこの市場のゴロツキ全員を敵に回したかもよ」
「掃除の手間が省ける」
レオは袖の乱れを直し、何事もなかったかのように立ち去ろうとした。
「待ちなさい」
声がかかった。
野次馬の中から、一人の男が進み出てきた。
背は低いが、肩幅が広い。
厚手の毛皮のコートを着て、口元にはパイプを咥えている。
顔には長い刀傷が走っていた。
「いい腕だ」
男はパイプを外し、白い煙を吐いた。
「軍隊上がりか? それとも南の傭兵か?」
レオは足を止め、男を見た。
「ただの求職者だ」
「求職者にしては、殺気が綺麗すぎる」
男は私たちが持っている看板を見た。
『探し物、承ります』。
彼はニヤリと笑い、懐から革袋を取り出した。
ジャラリ、と重い音がする。
「探し物は得意か?」
「物によります」
レオが答える。
「俺が探しているのは『平和』だ」
男は革袋を放り投げた。
レオが片手で受け止める。ずっしりとした重み。
「この市場は最近、害虫が増えて困っている。今のようなハエがブンブン飛び回って、商売の邪魔をするんだ」
男はパイプで逃げたゴロツキの方角を指した。
「あんたがハエ叩きになってくれるなら、その袋の中身は手付金だ。成功報酬は別に出す」
レオは袋の口を開け、中身を確認した。
銀貨が詰まっている。
彼は袋を閉じ、私に投げ渡した。
「条件は」
「市場の警備と、トラブルの解決。それと……」
男は私を見た。
「そっちの嬢ちゃん。耳がいいみたいだな」
ドキリとした。
この男、気づいているのか?
「さっき、ナイフが出る前に『ポケットを狙ってる』と言っただろう。聞こえていたのか?」
「……勘よ」
私は看板の後ろに隠れるように言った。
「目つきが悪かったから」
「いい勘だ」
男は深く追求しなかった。
「俺は組合長のボリスだ。この市場を仕切っている」
彼はレオに手を差し出した。
「名前は?」
「……レオだ」
「レティよ」
レオはボリスの手を握り返した。
ガシッ、と音がしそうな握手。
「交渉成立だ、レオ。レティ」
ボリスは満足げに頷いた。
「歓迎するぜ。この凍った掃き溜めへ」
私は銀貨の入った袋を懐にしまい、看板を裏返した。
『準備中』と書くつもりだったが、炭が折れたのでやめた。
どうやら看板なんて必要なかったらしい。
私たちは、この街で一番確実な「職」を手に入れたのだから。




