表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/60

第45話 看板のない店

 部屋の空気が、昨日よりも鋭くなっていた。

 暖炉の中を覗き込むと、そこには白い灰が少し残っているだけで、燃えるべき木片はひとかけらもない。

 私は毛布を頭まで被り直し、隣で寝ているはずの同居人を探って手を伸ばした。

 指先が触れたのは、冷たい床板だけだった。


 「……逃げた?」

 私は上半身を起こした。

 部屋の隅、窓際にレオが立っていた。

 彼は腕を組み、霜の降りたガラス越しに外を睨んでいる。その背中は、敵軍の布陣を観察する指揮官のように張り詰めていた。


 「何を見てるの。雪の結晶?」

 私が声をかけると、彼は振り返らずに答えた。

 「燃料の残量と、俺たちの財布の中身の相関関係について考えていた」

 「結論は?」

 「凍死か、餓死か、その両方だ」


 レオは窓際から離れ、足元の空っぽの木箱を蹴った。

 カポッ、という軽い音が、部屋の広さを強調する。

 昨夜の缶詰の残骸が転がっているだけで、朝食と呼べるものは存在しない。


 「働きましょう」

 私は毛布から這い出し、コートを羽織った。

 「座っていてもパンは歩いてこないわ」

 「職はあるのか」

 「作るのよ。元手がかからなくて、在庫を抱えなくていい商売を」


 私はポケットから、昨日拾った木の板と、炭の欠片を取り出した。

 板に殴り書きをする。

 『探し物、承ります』。

 文字は歪んでいるが、読めなくはない。


 「これを持って、市場の入り口に立つの」

 「……乞食と変わらん」

 「プライドで腹が膨れるなら、あんたは今頃破裂してるわよ」


 レオは短く鼻を鳴らし、自分のコートを掴んだ。

 その裾は少しほつれていたが、彼は気にする素振りも見せない。

 かつての将軍は、今や北国の貧乏人になりきろうとしていた。


 *


 自治都市の市場は、王都のそれとは違う匂いがした。

 香辛料や腐敗臭の代わりに、海産物の塩気と、濡れた獣毛の匂いが充満している。

 地面は踏み固められた雪で覆われ、滑りやすい。

 人々は皆、厚手の毛皮やフェルトの帽子を目深に被り、白い息を吐きながら黙々と歩いていた。


 私たちは市場の入り口、風除けのテントの陰に陣取った。

 私が木の看板を掲げ、レオがその横で仁王立ちする。

 どう見ても、怪しい勧誘と用心棒のコンビだ。


 「……誰も見ないな」

 十分後、レオがボヤいた。

 「視線が冷たい。雪よりもだ」

 「あんたの顔が怖いのよ。もう少し愛想よく笑えない?」

 「無理だ。顔の筋肉が凍っている」


 通り過ぎる人々は、私たちを一瞥するが、すぐに関わり合いになるのを避けるように目を逸らす。

 当然だ。

 どこの馬の骨とも知れない余所者に、大事な探し物を頼む人間などいない。


 お腹が鳴った。

 向かいの屋台から、茹でたトウモロコシの甘い湯気が流れてくる。

 私は唾を飲み込み、気を紛らわせるために耳を澄ませた。


 市場の喧騒。

 荷車の車輪が雪を軋ませる音。

 商人の掛け声。

 それらの奥に、人々の思考の断片が混じっている。


 ――寒い。薪を買わなきゃ。

 ――今日の夕飯はシチューにしよう。

 ――財布の中身が足りない。


 平和な悩みだ。

 切迫した「死」の臭いがない。ここは、戦場から一番遠い場所なのかもしれない。


 その時、群衆の流れに逆らって、一人の老婆が右往左往しているのが見えた。

 腰が曲がり、分厚いショールを被っている。

 彼女は地面の雪を必死に見つめ、時折しゃがみ込んでは手袋をした手で雪を掻き分けていた。


 「……あそこ」

 私は看板を下ろした。

 「客よ」

 レオが視線を向ける。

 「ただの徘徊老人に見えるが」

 「違うわ。探してる。何か大事なものを」


 私は老婆に近づいた。

 彼女は周囲の視線など気にしていない。ただ、涙目で雪面を凝視している。

 「どうしました?」

 私が声をかけると、老婆はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。

 皺だらけの顔が、寒さで赤くなっている。


 「あ、あの……指輪を。指輪を落としてしまって」

 老婆の声は震えていた。

 「手袋を外した時に、一緒に抜けてしまったの。主人の形見なのに……」


 彼女の指には、白い跡が残っていた。長年つけていた指輪がなくなった証拠だ。

 周囲の雪は、すでに多くの足跡で踏み荒らされている。

 この中から小さな金属片を見つけるのは、干し草の山から針を探すようなものだ。


 「どんな指輪?」

 「金の……裏に日付が彫ってあるの。古いものだから、傷だらけで……」


 私は目を閉じた。

 視覚情報は邪魔だ。白い雪は光を反射しすぎる。

 聴覚を研ぎ澄ます。

 

 雪の下。

 踏み固められた氷の層。

 その中に埋もれている「物」の声を聞く。


 ――冷たい。

 ――暗い。

 ――誰か踏んだ。重い。


 声がした。

 微かな、金属の共鳴音。

 それは、ただの落とし物ではない。持ち主の情念が染み付いた、強い絆の記憶を持っている。


 ――ばあさん。風邪を引くぞ。

 ――早く見つけてくれ。

 ――俺はここにいる。


 指輪に残った、亡き夫の声だ。


 「……見つけた」

 私は目を開け、老婆の足元から数歩離れた場所を指差した。

 「そこ。肉屋の屋台の柱の横。雪の下に埋まってる」


 老婆がきょとんとする。

 「え? でも、そこはさっき探したけれど……」


 「レオ」

 私は顎で指示した。

 「掘って」


 レオニスが無言で前に出た。

 彼は腰からナイフを抜いたが、周囲の目が集まるのを察してすぐに戻し、代わりに屋台の脇にあったスコップを借りた。

 ザクッ。

 硬い雪にスコップを突き立てる。

 

 一掻き、二掻き。

 氷の塊が掘り起こされる。

 その中から、キラリと光るものが転がり落ちた。


 「あった……!」

 老婆が叫び、雪の上に膝をついてそれを拾い上げた。

 泥のついた金の指輪。

 彼女はそれを胸に押し抱き、震える声で礼を言った。

 「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」


 「仕事ですから」

 私は看板の裏についた雪を払った。

 「さて、お代の話だけど」


 老婆はハッとして、懐から財布を取り出した。

 古びた布の財布だ。中身は寂しそうに見える。

 「いくら、お支払いすれば……。持ち合わせがこれしかなくて……」

 彼女は小銭を数枚、手のひらに乗せて差し出した。


 私はレオを見た。

 交渉役は彼の担当だ。

 レオは小銭を見下ろし、それから老婆が腕に下げている買い物袋に視線を移した。

 袋からは、立派な長ネギと、紙に包まれた肉の塊が覗いている。


 「金はいらん」

 レオが言った。

 老婆が驚いた顔をする。

 「え?」


 「その袋の中身をもらう」

 彼は買い物袋を指差した。

 「ネギと、その肉だ。それで手を打つ」


 「え、ええ? これだけでいいのですか? これは今夜のスープの材料ですが……」

 「十分だ。俺たちもスープが飲みたかったところだ」


 レオは強引に袋から食材を抜き取った。

 老婆は呆気に取られていたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして笑った。

 「変わった人たちねえ。……そうだ、ジャガイモも持っていきなさい。畑で採れたばかりなの」

 彼女はポケットから土のついたジャガイモを数個取り出し、レオの手に押し付けた。


 *


 帰り道、レオは戦利品を抱えて上機嫌に歩いていた。

 「悪くない取引だ。この肉は羊だぞ。脂が乗っている」

 「現金の方がよかったんじゃない? 薪が買えないわよ」

 「腹が満たされれば体温が上がる。薪の節約になる」


 独自の理論だ。

 だが、彼の腕の中にある食材は、確かに魅力的だった。

 今夜はご馳走だ。

 缶詰ではない、本物の肉と野菜のスープ。


 「ねえ、レオ」

 私は空を見上げた。

 灰色の雲の切れ間から、薄日が差し込んでいる。

 「看板、書き直そうか」

 「何と書く」

 「『何でも屋』。報酬は現物支給可」


 レオは少し考えてから、小さく頷いた。

 「採用だ。ただし、腐った麦だけは受け取らん」


 私たちは雪道を踏みしめ、家路を急いだ。

 お腹が鳴る音も、寒さも、今は苦にならなかった。

 少なくとも、今日の夕食は確保されたのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ