第45話 看板のない店
部屋の空気が、昨日よりも鋭くなっていた。
暖炉の中を覗き込むと、そこには白い灰が少し残っているだけで、燃えるべき木片はひとかけらもない。
私は毛布を頭まで被り直し、隣で寝ているはずの同居人を探って手を伸ばした。
指先が触れたのは、冷たい床板だけだった。
「……逃げた?」
私は上半身を起こした。
部屋の隅、窓際にレオが立っていた。
彼は腕を組み、霜の降りたガラス越しに外を睨んでいる。その背中は、敵軍の布陣を観察する指揮官のように張り詰めていた。
「何を見てるの。雪の結晶?」
私が声をかけると、彼は振り返らずに答えた。
「燃料の残量と、俺たちの財布の中身の相関関係について考えていた」
「結論は?」
「凍死か、餓死か、その両方だ」
レオは窓際から離れ、足元の空っぽの木箱を蹴った。
カポッ、という軽い音が、部屋の広さを強調する。
昨夜の缶詰の残骸が転がっているだけで、朝食と呼べるものは存在しない。
「働きましょう」
私は毛布から這い出し、コートを羽織った。
「座っていてもパンは歩いてこないわ」
「職はあるのか」
「作るのよ。元手がかからなくて、在庫を抱えなくていい商売を」
私はポケットから、昨日拾った木の板と、炭の欠片を取り出した。
板に殴り書きをする。
『探し物、承ります』。
文字は歪んでいるが、読めなくはない。
「これを持って、市場の入り口に立つの」
「……乞食と変わらん」
「プライドで腹が膨れるなら、あんたは今頃破裂してるわよ」
レオは短く鼻を鳴らし、自分のコートを掴んだ。
その裾は少しほつれていたが、彼は気にする素振りも見せない。
かつての将軍は、今や北国の貧乏人になりきろうとしていた。
*
自治都市の市場は、王都のそれとは違う匂いがした。
香辛料や腐敗臭の代わりに、海産物の塩気と、濡れた獣毛の匂いが充満している。
地面は踏み固められた雪で覆われ、滑りやすい。
人々は皆、厚手の毛皮やフェルトの帽子を目深に被り、白い息を吐きながら黙々と歩いていた。
私たちは市場の入り口、風除けのテントの陰に陣取った。
私が木の看板を掲げ、レオがその横で仁王立ちする。
どう見ても、怪しい勧誘と用心棒のコンビだ。
「……誰も見ないな」
十分後、レオがボヤいた。
「視線が冷たい。雪よりもだ」
「あんたの顔が怖いのよ。もう少し愛想よく笑えない?」
「無理だ。顔の筋肉が凍っている」
通り過ぎる人々は、私たちを一瞥するが、すぐに関わり合いになるのを避けるように目を逸らす。
当然だ。
どこの馬の骨とも知れない余所者に、大事な探し物を頼む人間などいない。
お腹が鳴った。
向かいの屋台から、茹でたトウモロコシの甘い湯気が流れてくる。
私は唾を飲み込み、気を紛らわせるために耳を澄ませた。
市場の喧騒。
荷車の車輪が雪を軋ませる音。
商人の掛け声。
それらの奥に、人々の思考の断片が混じっている。
――寒い。薪を買わなきゃ。
――今日の夕飯はシチューにしよう。
――財布の中身が足りない。
平和な悩みだ。
切迫した「死」の臭いがない。ここは、戦場から一番遠い場所なのかもしれない。
その時、群衆の流れに逆らって、一人の老婆が右往左往しているのが見えた。
腰が曲がり、分厚いショールを被っている。
彼女は地面の雪を必死に見つめ、時折しゃがみ込んでは手袋をした手で雪を掻き分けていた。
「……あそこ」
私は看板を下ろした。
「客よ」
レオが視線を向ける。
「ただの徘徊老人に見えるが」
「違うわ。探してる。何か大事なものを」
私は老婆に近づいた。
彼女は周囲の視線など気にしていない。ただ、涙目で雪面を凝視している。
「どうしました?」
私が声をかけると、老婆はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。
皺だらけの顔が、寒さで赤くなっている。
「あ、あの……指輪を。指輪を落としてしまって」
老婆の声は震えていた。
「手袋を外した時に、一緒に抜けてしまったの。主人の形見なのに……」
彼女の指には、白い跡が残っていた。長年つけていた指輪がなくなった証拠だ。
周囲の雪は、すでに多くの足跡で踏み荒らされている。
この中から小さな金属片を見つけるのは、干し草の山から針を探すようなものだ。
「どんな指輪?」
「金の……裏に日付が彫ってあるの。古いものだから、傷だらけで……」
私は目を閉じた。
視覚情報は邪魔だ。白い雪は光を反射しすぎる。
聴覚を研ぎ澄ます。
雪の下。
踏み固められた氷の層。
その中に埋もれている「物」の声を聞く。
――冷たい。
――暗い。
――誰か踏んだ。重い。
声がした。
微かな、金属の共鳴音。
それは、ただの落とし物ではない。持ち主の情念が染み付いた、強い絆の記憶を持っている。
――ばあさん。風邪を引くぞ。
――早く見つけてくれ。
――俺はここにいる。
指輪に残った、亡き夫の声だ。
「……見つけた」
私は目を開け、老婆の足元から数歩離れた場所を指差した。
「そこ。肉屋の屋台の柱の横。雪の下に埋まってる」
老婆がきょとんとする。
「え? でも、そこはさっき探したけれど……」
「レオ」
私は顎で指示した。
「掘って」
レオニスが無言で前に出た。
彼は腰からナイフを抜いたが、周囲の目が集まるのを察してすぐに戻し、代わりに屋台の脇にあったスコップを借りた。
ザクッ。
硬い雪にスコップを突き立てる。
一掻き、二掻き。
氷の塊が掘り起こされる。
その中から、キラリと光るものが転がり落ちた。
「あった……!」
老婆が叫び、雪の上に膝をついてそれを拾い上げた。
泥のついた金の指輪。
彼女はそれを胸に押し抱き、震える声で礼を言った。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「仕事ですから」
私は看板の裏についた雪を払った。
「さて、お代の話だけど」
老婆はハッとして、懐から財布を取り出した。
古びた布の財布だ。中身は寂しそうに見える。
「いくら、お支払いすれば……。持ち合わせがこれしかなくて……」
彼女は小銭を数枚、手のひらに乗せて差し出した。
私はレオを見た。
交渉役は彼の担当だ。
レオは小銭を見下ろし、それから老婆が腕に下げている買い物袋に視線を移した。
袋からは、立派な長ネギと、紙に包まれた肉の塊が覗いている。
「金はいらん」
レオが言った。
老婆が驚いた顔をする。
「え?」
「その袋の中身をもらう」
彼は買い物袋を指差した。
「ネギと、その肉だ。それで手を打つ」
「え、ええ? これだけでいいのですか? これは今夜のスープの材料ですが……」
「十分だ。俺たちもスープが飲みたかったところだ」
レオは強引に袋から食材を抜き取った。
老婆は呆気に取られていたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「変わった人たちねえ。……そうだ、ジャガイモも持っていきなさい。畑で採れたばかりなの」
彼女はポケットから土のついたジャガイモを数個取り出し、レオの手に押し付けた。
*
帰り道、レオは戦利品を抱えて上機嫌に歩いていた。
「悪くない取引だ。この肉は羊だぞ。脂が乗っている」
「現金の方がよかったんじゃない? 薪が買えないわよ」
「腹が満たされれば体温が上がる。薪の節約になる」
独自の理論だ。
だが、彼の腕の中にある食材は、確かに魅力的だった。
今夜はご馳走だ。
缶詰ではない、本物の肉と野菜のスープ。
「ねえ、レオ」
私は空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、薄日が差し込んでいる。
「看板、書き直そうか」
「何と書く」
「『何でも屋』。報酬は現物支給可」
レオは少し考えてから、小さく頷いた。
「採用だ。ただし、腐った麦だけは受け取らん」
私たちは雪道を踏みしめ、家路を急いだ。
お腹が鳴る音も、寒さも、今は苦にならなかった。
少なくとも、今日の夕食は確保されたのだから。




