第44話 事故物件
不動産屋の男は、カウンターの下で手をこすり合わせていた。
暖房の効いた室内だというのに、彼は寒そうに首を縮めている。その視線は、私の顔と、隣に立つレオの顔を忙しなく往復していた。
「……ええと、お二人はご夫婦で?」
男が探るように聞いた。
無理もない。
薄汚れた軍用コートを着た少女と、目つきの鋭い大男だ。おまけに大男の方は、新品のカミソリで髭を剃ったばかりで、顎の周りが青白く光っている。どう見てもカタギのカップルには見えない。
「兄妹です」
レオが即答した。
「出稼ぎに来た。職はこれから探す。手持ちの金はある」
彼は懐から、ミレイがくれた紙幣を一枚だけ取り出し、カウンターに置いた。
男の目が釘付けになる。この辺りの相場なら、三ヶ月分のアパート代に相当する額だ。
「なるほど、ご兄妹……」
男は紙幣を指先で引き寄せ、掌に隠した。
「それなら、いい物件がありますよ。街の西側、元は倉庫だった建物を改装したアパートです。広さは十分、家賃は破格。ただ……」
「ただ?」
私が身を乗り出す。
「少々、出るんですよ」
男は声を潜め、天井を指差した。
「ネズミ?」
「いえ、もっと……精神的なものが」
*
案内されたアパートは、運河沿いの煉瓦造りの建物だった。
外壁には蔦が絡まり、雪をかぶって凍りついている。
階段を登り、二階の角部屋の前で、不動産屋は足を止めた。
「ここです。鍵は開いています」
彼はドアノブに触れようともしなかった。
「私はここで失礼しますよ。暖房の点検がありますので」
彼は逃げるように階段を降りていった。
「わかりやすいわね」
私はレオを見た。
「開けて、お兄ちゃん」
「その呼び方はやめろ。寒気がする」
レオがドアを開けた。
冷え切った空気が流れ出してくる。
中は広かった。家具はない。床板が剥き出しで、奥に小さな流し台と、古びた暖炉があるだけだ。
窓ガラスには霜が降りて、外の景色を白く濁らせている。
一歩足を踏み入れる。
途端に、部屋の四隅から低い唸り声が響いた。
――出て行け。
――寒い。閉めろ。
――私の部屋だ。
「……賑やかだな」
レオが眉をひそめた。彼には聞こえないはずだが、空気の淀みを感じ取ったらしい。
「物理的な音か?」
「いいえ。残留思念よ。前の住人ね」
私は部屋の中央に進み出た。
声は暖炉の前あたりから強く響いている。
老婆の声だ。執着心が強い。
――薪がない。凍える。
――誰も来ない。息子はどこだ。
――出て行け!
「うるさい!」
私は床を強く踏み鳴らした。
ドン、と乾いた音が響き、残響が一瞬だけ止まる。
「あんたの息子は知らないけど、ここの家賃を払ったのは私たちよ」
私は虚空に向かって言い放った。
「寒いのなら暖めてあげる。その代わり、夜中に喚き散らすのはなしにして。安眠妨害で訴えるわよ」
レオニスが窓際の鎧戸を閉め、外気を遮断した。
それから、まだ何もない暖炉の前に行き、新聞紙を丸めて火をつけた。
小さな炎が上がる。
煙突の効果で、煙が吸い上げられていく。
――……火だ。
――暖かい。
老婆の声が和らいだ。
憎悪のトーンが消え、安堵のため息のような音に変わる。
――なら、いい。
――少しだけ、場所を貸してやる。
気配が薄れ、部屋の隅へと退いていった。
完全には消えていないが、同居人としては許容範囲だ。
「交渉成立みたい」
私は肩の力を抜いた。
「暖炉の火を絶やさなければ、大人しくしてるって」
「燃料代がかさむ同居人だな」
レオは立ち上がり、部屋を見渡した。
「だが、構造はしっかりしている。床も抜けていない。悪くない」
*
日が暮れると、気温はさらに下がった。
私たちは雑貨屋で買ってきた毛布を一枚、暖炉の前に広げた。
家具を買う金はあるが、まずは食料と燃料が優先だ。
薪がパチパチと爆ぜる音だけが、部屋の静寂を埋めている。
「夕飯だ」
レオが缶詰を二つ、暖炉の縁に並べて温めていた。
牛肉の大和煮。軍の放出品だ。
蓋を開けると、醤油と脂の濃い匂いが漂う。
「パンがないのが残念ね」
私はスプーンで肉をすくい、口に入れた。
味が濃い。だが、冷え切った体にはこの塩分が必要だ。
「明日は市場へ行こう。スープの材料と、硬くないパンを買うの」
「仕事も探さなきゃならん」
レオも缶詰を食べている。
髭のない彼の顔は、こうして見ると随分若く見えた。
将軍としての威厳が削ぎ落とされ、ただの精悍な青年がそこにいる。
「何の仕事? 用心棒?」
「それもいいが、元手がかからない商売がいい」
彼は私を見た。
「お前の耳と、俺の……交渉術を使えば、何かできるはずだ」
「交渉術ねえ。脅迫術の間違いじゃない?」
私は笑い、残りの肉汁を飲み干した。
食事を終えると、私たちは一枚の毛布にくるまった。
暖炉の前とはいえ、床からの冷気は容赦がない。
背中合わせになる。
レオの背中の体温が、シャツ越しに伝わってくる。
「……狭い」
彼がボヤく。
「我慢してよ。凍死したくないでしょ」
「明日、もう一枚毛布を買う」
「却下。その金で鍋を買うわ」
私は毛布を首まで引き上げた。
耳を澄ます。
部屋の隅で、老婆の霊が寝息のような音を立てている。
窓の外では、北国の風がヒューヒューと鳴っていた。
王都の豪華な宿舎や、高級な食事はもうない。
ここにあるのは、幽霊付きの空っぽの部屋と、缶詰の空き缶だけ。
「……レオ」
「なんだ」
「意外と、悪くないわね」
返事はなかった。
代わりに、彼が少しだけ背中の位置をずらし、私の肩に風が当たらないようにしてくれたのがわかった。
私は目を閉じた。
ここが、私たちの新しい城だ。
明日はどんな音が聞こえるだろうか。
そんなことを考えながら、私は深い眠りに落ちていった。




