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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第43話 朝食

 背中の板張りから伝わる振動が、骨格をバラバラにしそうなほど激しかった。

 ガタン、ゴトン、という車輪のリズムが、無限に続く揺りかごのように私の意識を揺さぶる。

 私はわらの山から顔を上げ、大きくあくびをした。

 口の中に、昨夜食べた砕けた飴の甘ったるい後味が残っている。


 「……おはよう、ボス」

 私は掠れた声で言った。

 「ここ、どこ?」


 向かいの木箱に座っていた男が、薄目を開けた。

 レオニスだ。

 軍服の上着を脱ぎ、シャツの袖を捲っている。膝の上には、奪った銃が置かれていた。

 彼は窓のない壁の隙間から差し込む光の筋を目で追い、短く答えた。


 「北へ向かっている。外の空気の冷たさからして、山岳地帯に入った頃だ」

 「暖房のない客室なんて、サービス最悪ね」

 私はコートの前を合わせ、身震いした。

 寒さよりも、空腹のほうが深刻だ。

 胃袋が抗議の声を上げている。


 レオニスが座っている木箱を指で叩いた。

 「食料ならある。積荷だ」

 「何が入ってるの?」

 「ラベルには『特選果実』とある」


 彼は腰のナイフを抜き、木箱の蓋の隙間に差し込んだ。

 手首を捻る。

 メリッ、という乾いた音がして、板が浮き上がった。

 中から、甘酸っぱい香りが漂ってくる。


 「……リンゴね」

 私は箱の中を覗き込んだ。

 赤く艶のある果実が、籾殻もみがらの中に埋もれている。

 私は遠慮なく手を伸ばし、一つ掴み出した。

 服の袖で表面を拭い、かぶりつく。

 シャクッ。

 果汁が口の中に溢れ、乾いた喉を潤した。


 「泥棒の味は格別よ」

 私が言うと、レオニスも一つ手に取り、ナイフで皮を剥き始めた。

 彼は皮を途切れさせずに長く剥いていく。ここでも几帳面さが出ている。


 「必要経費だ。後で出荷主に代金を送っておく」

 「住所も知らないのに?」

 「貨車番号を控えた。調べればわかる」


 彼は綺麗に剥かれたリンゴを一切れ切り出し、口に運んだ。

 咀嚼音が静かに響く。


 「さて」

 私は食べかけのリンゴを弄びながら、本題を切り出した。

 「これからのことだけど。名前、どうする?」

 「名前?」

 「『レオニス将軍』なんて名乗ったら、一瞬で通報されるわよ。指名手配犯なんだから」


 レオニスはナイフを止めた。

 「……そうだな。偽名が必要か」

 「何か案はある?」


 彼は少し考え込み、真面目な顔で言った。

 「『アルフレッド』はどうだ」

 「長い。呼びにくい」

 「では『ヴィクトール』」

 「強そうすぎる。もっとこう、その辺に転がってそうな名前がいいのよ」


 私は芯だけになったリンゴを床に転がした。

 「『レオ』でいいんじゃない?」

 「……短絡的すぎる」

 「覚えやすいし、元の名前の名残もある。犬の名前みたいで親しみやすいわ」


 レオニスは不服そうに眉を寄せたが、否定はしなかった。

 「……好きにしろ。どうせ呼ぶのはお前くらいだ」

 「決定ね。よろしく、レオ」


 「お前はどうする」

 「私は『レティ』のままよ。孤児院にはレティなんて名前の子供、掃いて捨てるほどいたもの。ありふれた名前って、こういう時に便利なの」


 私は新しいリンゴに手を伸ばした。

 今度は皮ごとではなく、少し丁寧に食べてみることにする。


 「それと」

 私はレオニスの顔を指差した。

 「その髭。どうにかしたほうがいいわよ」


 レオニスが自分の顎に触れた。

 逃亡生活に入ってから剃っていない髭が、顎を青く覆っている。

 いつも完璧に整えられていた彼の顔が、今はやさぐれた傭兵のように見えた。


 「……不快だ」

 彼が吐き捨てるように言った。

 「肌がざらつく。鏡がないから剃れない」

 「ワイルドでいいと思うけど。落ちぶれた元将軍の哀愁が漂ってる」


 「茶化すな。次の街に着いたら、真っ先にカミソリを買う」

 「はいはい。パンよりも石鹸よりもカミソリね」


 列車がカーブに差し掛かり、大きく傾いた。

 木箱が音を立てて滑る。

 レオニスが咄嗟に手を伸ばし、私の体を支えた。

 その手は大きくて温かいが、袖口からは古びた藁の匂いがした。


 「……あとどれくらい?」

 「半日もあれば着く。北の終着駅だ」

 「そっか」


 私は彼の腕の中で体勢を直した。

 北の果て。

 権力も、陰謀も、追手も届かない場所。

 そこがどんな場所かは知らないが、少なくともリンゴより不味いものはないだろう。


 「少し寝るわ。着いたら起こして、レオ」

 「……ああ。おやすみ、レティ」


 慣れない呼び名が、貨車の狭い空間に溶けていく。

 私は目を閉じ、車輪の音に身を委ねた。

 次の駅で降りたら、私たちは何者でもない二人になる。

 それは、想像していたよりもずっと、悪くない気分だった。

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