第42話 砕けた飴と貨車のリズム
タイヤが泥を噛む音が、エンジンの唸り声をかき消していた。
ハンドルが勝手に暴れる。
私はそれを腕力で押さえ込み、アクセルペダルを床まで踏みつけた。
車体は大きく跳ね、藪をなぎ倒して獣道を突き進む。
フロントガラスには茶色の泥が飛び散り、視界の半分を塞いでいた。
「……運転が荒い」
助手席のレオニスが、天井のグリップを握りしめて言った。
「舌を噛みそうだ」
「文句は舗装されていない地面に言って。それか、もっといい車を用意してくれなかったミレイにね」
私はハンドルを左に切った。
後輪が滑る。
車体は横向きになりかけたが、前輪が硬い地面を捉え、強引に前へ進んだ。
サイドミラーを見る。
追手の姿はない。
憲兵隊の車両は舗装路仕様だ。こんな泥沼には入ってこられない。
だが、空からは違う目が追ってくるかもしれない。
耳を澄ます。
上空の風の音。鳥の声。
プロペラ音はない。まだ、航空隊までは動いていないようだ。
「……ここまで来れば、包囲網の外だ」
レオニスが後ろを振り返り、息を吐いた。
「だが、このまま走り続けるわけにはいかん。燃料が尽きる」
「わかってる。乗り換えるわ」
前方の視界が開けた。
森が切れ、小高い丘の上に出る。
眼下には、霧に包まれた平原が広がり、その中央を黒い鉄路が一本、北へ向かって伸びていた。
「貨物線だ」
レオニスが指差した。
「この時間は、北部へ向かう物資輸送列車が通る。石炭と木材、それから空のコンテナだ」
私はブレーキを踏んだ。
車は惰性で進み、線路を見下ろす木立の中で停止した。
エンジンを切る。
静寂が戻ってきた。
熱を持ったボンネットが、チン、チン、と冷える音だけが響く。
「降りるわよ」
私はドアを開けた。
冷たい風が吹き込み、汗ばんだシャツを冷やす。
レオニスも降りる。
彼の手には、奪った憲兵の銃が握られていた。
彼は車検証入れから布を取り出し、ハンドルやドアノブを丁寧に拭き始めた。
指紋を消しているのだ。
「几帳面ね」
「習性だ。追跡の手掛かりは一つでも減らす」
彼は作業を終えると、ナンバープレートを泥で塗りつぶした。
遠くから、汽笛が聞こえた。
長く、低い音。
線路から伝わる振動が、足の裏をくすぐり始める。
「走るぞ」
レオニスが斜面を滑り降りる。
私はコートの裾をまくり上げ、その後を追った。
*
列車は遅かった。
長い編成の貨車が、上り坂に喘ぐように速度を落としている。
黒い機関車が吐き出す煙が、頭上を流れていく。
私たちは線路脇の茂みに伏せ、通過する車両を見送った。
無蓋車には丸太が積まれ、タンク車には油の表示がある。
人が乗れる場所を探す。
「……あれだ」
レオニスが指差したのは、編成の後方にある有蓋車だった。
扉が少しだけ開いている。
空の車両だろうか。
列車が目の前を通過する。
速度は人が小走りする程度だ。
「行け!」
レオニスが飛び出した。
砂利を踏みしめ、並走する。
彼は開いた扉の縁に手をかけ、鉄棒をするように軽々と体を引き上げた。
車内に入り、すぐに向き直って手を差し出す。
「跳べ!」
私は地面を蹴った。
動いている物体に飛び移るのは、見た目以上に怖い。
だが、迷っている暇はない。
私は差し出された手をめがけて跳躍した。
ガシッ。
革手袋の感触。
私の体は宙に浮き、強い力で車内へと引きずり込まれた。
床に転がる。
板張りの床は冷たく、埃っぽい藁の匂いがした。
レオニスがすぐに扉を閉める。
重い鉄の扉が、ガコンという音を立てて外界を遮断した。
車内は暗闇に包まれた。
わずかな隙間から、レールが流れる音がリズミカルに響いている。
「……乗ったわね」
私は床に大の字になって息を整えた。
「切符も買わずに」
「運賃は後で払うさ。国ごと買い戻してな」
レオニスは壁に背中を預け、座り込んだ。
目が暗闇に慣れてくる。
車内には木箱がいくつか積まれているだけで、他には何もない。
死者の声もしない。
ただ、車輪の回転音と、連結器がきしむ音だけが、ここにある世界の全てだった。
私は起き上がり、レオニスの隣に座った。
彼は膝を立て、その上に腕を置いていた。
手首には、まだ手錠の痕が赤く残っている。
肩には階級章のない軍服。腰には正剣もない。
今の彼は、ただの脱走兵にしか見えない。
「……何もかも失ったな」
彼がポツリと言った。
後悔の声ではない。事実確認の声だ。
「地位も、名誉も、部下も。口座の金も」
「そうね」
私はポケットを探った。
「将軍閣下はただのレオニスになった。無職で、指名手配犯で、文無しの」
指先に触れたのは、冷たい金属の缶だった。
取り出す。
私の飴の缶だ。
蓋を開ける。
中身は、昨日の逃走劇の衝撃で砕けていた。
色とりどりの欠片が、宝石の屑のように混ざり合っている。
「でも、これだけは残ってるわ」
私は缶を彼の前に差し出した。
「食べる?」
レオニスは缶の中身を覗き込んだ。
粉々になった飴。
「……形が悪い」
「味は同じよ」
彼は手袋を外し、素手で欠片を一つまみ取った。
口に放り込む。
ガリリ、と噛む音がした。
「甘いか?」
私が聞く。
「……ああ。ひどく甘い」
私も一つまみ、口に入れた。
イチゴとレモンとハッカが混ざった、複雑な味がした。
王都の高級菓子店のスコーンよりは劣るが、泥の味がするパンよりはずっとマシだ。
「十分でしょ」
私は缶の蓋を閉めた。
「これだけあれば、北の果てまで持つわ」
レオニスは壁に頭を預け、目を閉じた。
列車の揺れが、ゆりかごのように心地よい。
「……寝る。着いたら起こせ」
「へいへい。おやすみ、ボス」
私はコートを身体に巻き付け、膝を抱えた。
耳を澄ます。
王都の喧騒はもう聞こえない。
追手のサイレンも、工場の悲鳴も、予算局長の嘲笑も、すべて遥か後方へ置き去りにしてきた。
聞こえるのは、未来へ向かって進む車輪の音だけ。
ガタン、ゴトン。
それは、新しい生活の始まりを告げる秒針のように聞こえた。
貨物列車は霧の中を突き進む。
私たちは共犯者として、誰も知らない場所へと運ばれていった。




