第41話 甘い気体と逆転の鍵
アスファルトを通して伝わってくる振動が、私の背骨を直接震わせていた。
私は排水路の点検口の真下、冷たいコンクリートの梁にへばりついていた。
頭上数メートルの場所を、巨大なタイヤが通過していく。
轟音。
排気ガスの熱と、ディーゼルエンジンの重低音。
ガスマスクのゴム臭い空気を吸い込み、私はタイミングを計った。
通過したのは一台目。先導の軽車両だ。
続いて、もっと重く、腹に響く振動が近づいてくる。
本命だ。
装甲板で覆われた輸送車。その中に、あの不機嫌なボスが詰め込まれている。
私は手元のロープを強く引いた。
物理的な罠だ。
道路の脇、ガードレールの支柱に結びつけておいたトラック――ミレイから借りたオンボロ車――のハンドブレーキが外れる仕掛け。
ガシャーン!
頭上で激しい衝突音が響いた。
斜面を滑り落ちたトラックが、道路を塞ぐように横転したのだ。
キキーッ!
急ブレーキの音。タイヤが路面を削り、焦げたゴムの臭いが漂ってくる。
怒号が飛び交う。
「何だ! 事故か!」
「トラックが突っ込んできたぞ! 警戒せよ!」
車列が止まった。
まさに私の頭上で。
「……よし」
私は点検口の梯子を駆け上がった。
鉄格子の蓋を肩で押し上げる。
錆びた隙間から、地上の光景が見えた。
輸送車の後部ドアの前で、数人の憲兵が銃を構えて周囲を警戒している。
彼らの意識は、横転したトラックの方――前方に向いていた。
足元からネズミが出てくるとは思っていない。
私はポケットからリサ特製の小瓶を取り出した。
布で包んである。
私はそれを鉄格子の隙間から、憲兵たちの足元へ転がした。
カラン。
乾いた音がして、瓶が割れた。
揮発性の液体が広がる。
一瞬で気化したそれは、目に見えない白い霧となって憲兵たちの足元から這い上がった。
「なんだ? 甘い匂いが……」
一人が鼻を鳴らした。
次の瞬間、彼の膝が折れた。
糸が切れた操り人形のように、崩れ落ちる。
「おい、どうし……うっ」
二人目も倒れた。
三人目は喉を押さえ、何かを叫ぼうとして、そのまま白目を剥いて地面に突っ伏した。
リサの調合は完璧だった。
「膝から崩れ落ちるやつ」という注文通りだ。
私は鉄格子を蹴り開け、地上に出た。
ガスマスクのレンズ越しに見る世界は歪んでいる。
道路には、昏倒した憲兵たちが転がっていた。前方では、運転手たちがトラックの様子を見に行っており、後方の異変に気づいていない。
私は輸送車の後部ドアに駆け寄った。
鍵がかかっている。
当然だ。
だが、私は倒れている憲兵の腰から、ジャラリと音のする鍵束を抜き取っていた。
鍵穴に差し込む。
合わない。次。これも違う。
――早くしろ。
――気づかれる。
自分の心臓の音がうるさい。
三本目の鍵が、カチリと奥まで入った。
回す。
重いロックが外れる音がした。
私はドアのハンドルを両手で掴み、体重をかけて引いた。
重い。油切れの蝶番が悲鳴を上げる。
隙間が開く。
中の暗闇から、冷たい空気が漏れ出してくる。
「……誰だ」
中から低い声がした。
警戒と、微かな殺気を含んだ声。
私はガスマスクを外した。
新鮮な空気を肺に入れ、ドアを全開にする。
車内は狭い檻になっていた。
鉄格子で仕切られた空間の奥、ベンチに一人の男が座っていた。
レオニスだ。
手錠をかけられ、足にも鎖が巻かれている。
軍服は皺だらけになり、顔には無精髭が浮いていたが、その瞳の光だけは死んでいなかった。
彼は私を見て、目を丸くした。
言葉を失っている。
鉄面皮の将軍が、間抜けな顔を晒している。
「……おはよう、ボス」
私は鍵束を指先で回してみせた。
「迎えに来たわよ。残業代の請求にね」
「レティ……」
レオニスは鎖の音をさせて立ち上がろうとした。
「なぜ来た。逃げろと言ったはずだ」
「言ったわね。でも、契約書は破り捨てたから無効よ」
私は車内に乗り込み、檻の前に立った。
鍵を開ける。
鉄格子が開く。
私はレオニスの手首を掴み、手錠の鍵穴を探った。
カチャリ。
銀色の輪が外れ、床に落ちる。
彼の手首には、赤い圧迫痕が残っていた。
「……馬鹿な奴だ」
レオニスは自由になった手を擦りながら、深いため息をついた。
「国家反逆罪の逃亡幇助だぞ。これでもう、お前も後戻りはできない」
「知ってるわよ。共犯者でしょ?」
私は足枷の鍵も外した。
重い鎖が外れ、レオニスは完全に自由になった。
「外は?」
「護衛は全員夢の中。でも、前方の運転手たちが戻ってくるまであと数分ってところね」
「数分あれば十分だ」
レオニスは床に落ちていた憲兵の銃を拾い上げ、スライドを引いて弾薬を確認した。
その動作一つで、彼は「囚人」から「将軍」に戻った。
「走れるか」
「車を用意してあるわ。オンボロだけど、エンジンはいいやつ」
「上等だ。行こう」
私たちは輸送車から飛び降りた。
前方の霧の中から、運転手たちの怒鳴り声が近づいてくる。
「おい! 後ろはどうなってる!」
「走れ!」
レオニスが私の手を引いた。
私たちは道路脇の斜面を駆け下り、排水路の陰に隠しておいたもう一台の車――ミレイが「予備」として教えてくれた小型の四輪駆動車――へと向かった。
エンジンがかかる。
背後で銃声が響いたが、弾丸はアスファルトを削るだけだった。
車は泥を跳ね上げ、街道から外れた獣道へと突っ込んでいく。
助手席で、レオニスがシートに背中を預けた。
「……とんだ朝帰りだな」
「ええ。モーニングコーヒーには間に合いそうにないわね」
私はハンドルを握りしめ、アクセルを踏み込んだ。
バックミラーの中で、輸送車の影が小さくなっていく。
私たちは逃げ切ったのだ。
世界のすべてを敵に回して。




