第40話 洗濯場の密談
橋の下の空気は、昼間でもひやりと冷えていた。
頭上を大型車両が通過するたび、コンクリートの天井からパラパラと砂塵が落ちてくる。私はそれを手で払い除け、新聞紙にくるまれた硬いパンを齧った。
味はしない。ただの小麦粉と水と、古いイースト菌の死骸だ。
だが、今の私には高級ホテルのディナーよりも価値がある。
「……来たわね」
私は咀嚼を止め、耳を澄ませた。
川沿いの遊歩道を、一人の男が歩いてくる。
作業服を着て、手には弁当箱のような包みを持っていた。足取りは重く、視線は地面に落ちている。
男は橋の下に差し掛かると、周囲を警戒するように一度だけ立ち止まった。
そして、私の座っている柱の陰に、包みをそっと置いた。
彼は私を見なかった。私も彼を見なかった。
ただ、彼が去り際に小さく呟いた言葉だけが、川音に混じって届いた。
「……借りは返しましたよ」
男の背中が遠ざかっていく。
管理局の総務課にいた、アームカバーの事務官だ。
かつて私が失くした書類を見つけてやり、一昨日は窓口で私を追い返した男。
彼は保身を選んだが、良心までは売り払っていなかったらしい。
私は包みを手に取った。
中には、また硬いパンと、一枚のメモが入っていた。
『移送は明朝。ルート4を使用。護衛は軽装甲車を含む車列』
「ルート4……」
私はメモを握り潰した。
王都から北の軍刑務所へ向かう幹線道路だ。交通量が多く、警備もしやすい。
まともに襲撃すれば、蜂の巣にされるのがオチだ。
私はパンをポケットにねじ込み、立ち上がった。
情報はある。資金もある。
あとは、実行するための「道具」と「足」が必要だ。
*
王都の下町にある共同洗濯場は、蒸気と洗剤の匂いで満ちていた。
巨大なボイラーが唸りを上げ、何十人もの洗濯婦たちが大きなタライでシーツを洗っている。
騒音と湿気が、密談にはうってつけのカーテンとなる。
私は一番奥、ボイラーの裏手にある休憩スペースに向かった。
そこには、場違いなほど上質なコートを着た二人の女性が、木のベンチに腰掛けていた。
「遅いよ」
リサが私に気づき、隠していたシガレットの火を靴底で踏み消した。
「この湿気で髪が爆発しそうだよ」
「ごめんね。ネズミみたいにコソコソ歩かなきゃいけなかったから」
私はベンチの端に座り、懐から茶色い革の封筒を取り出した。
レオニスが手切れ金として渡してきたものだ。
それを、隣に座っていたミレイの膝の上に置く。
「これ、使える?」
「……随分と分厚いわね」
ミレイは封筒の中身をチラリと確認し、口笛を吹いた。
「将軍様の退職金? 一生遊んで暮らせる額よ」
「遊びたいんじゃないの。買い物がしたいだけ」
私は指を折って数えた。
「車が一台。頑丈で、馬力があって、泥だらけになってもいいやつ。それと、運転手はいらない。私が運転する」
「無免許でしょ?」
「アクセルとブレーキの位置は知ってるわ」
「それから」
私はリサに向いた。
「眠くなる薬。即効性があって、巨体の男でもイチコロなやつ。あと、ガスマスクを二つ」
「クロロホルムかい? それともエーテル?」
「何でもいい。吸ったら膝から崩れ落ちるやつをお願い」
リサは呆れたように笑い、白衣のポケットから小瓶を取り出した。
「用意がいいだろう? あんたが何を言い出すか、大体予想がついていたからね」
彼女は小瓶を私に渡し、さらに小さな紙包みを添えた。
「こっちは気付け薬だ。自分が眠ったら元も子もないからね」
私はそれらをポケットにしまった。
ミレイが封筒を私に押し返してきた。
「お金はいいわ。取っておきなさい」
「え?」
「車は商会の配送用トラックを用意するわ。オンボロだけど、エンジンだけは積み替えたばかりの『当たり』よ。どうせ乗り捨てるんでしょう?」
ミレイは優雅に足を組み替えた。
「これは投資よ。将軍が戻ってきたら、私の商売敵をあと三つくらい潰してもらうわ。それでチャラにしましょ」
「……強欲ね」
「商人は強欲じゃないと生き残れないの」
彼女はハンドバッグから鍵を取り出し、私の掌に乗せた。
「裏通りの倉庫に停めてある。荷台には古着が積んであるから、カモフラージュに使いなさい」
「ありがとう」
私は鍵を握りしめた。冷たい金属の感触が、手の熱を奪う。
「絶対に返すわ。車も、ボスも」
「死なないでよ」
リサが立ち上がり、私の肩をポンと叩いた。
「あんたのカルテ、まだ『治療中』なんだからね」
二人は足早に去っていった。
長居は無用だ。彼女たちにも監視の目がついているかもしれない。
私は蒸気の中に一人残され、ボイラーの轟音を聞いていた。
*
夜、私は手に入れたトラックの運転席に座っていた。
キャビンは狭く、タバコと機械油の臭いが染み付いている。
私はダッシュボードに広げた地図を、懐中電灯の弱い光で照らした。
ルート4。
王都を出て北へ向かう一本道。
途中で古い運河と交差する地点がある。
そこには、現在は使われていない地下水路の排水口が開いているはずだ。
耳を澄ます。
記憶の中にある、都市の地下の音を探る。
――流れる。暗い水。
――空洞だ。響く。
――上の道路は薄い。トラックが通れば揺れる。
「……ここね」
私は地図のその地点に、爪で印をつけた。
「アスファルトの下が空洞になってる。ここなら、地面の下から挨拶ができる」
私はエンジンキーを回した。
セルモーターが苦しげな音を立て、やがて低い唸り声を上げてエンジンが目覚める。
車体が小刻みに震える。
この振動は、今の私の武者震いに似ていた。
助手席には、リサから貰った薬品と、ガスマスク。
そして、空になったジャムの瓶。
これはお守りだ。
甘い日常を取り戻すための、空っぽの器。
「待ってなさい、ボス」
私はギアを入れ、アクセルを踏んだ。
「解雇通知なんて、このタイヤですり潰してやる」
トラックが動き出す。
ヘッドライトが闇を切り裂き、私は夜明け前の街道へと走り出した。
空には星ひとつ見えない。
絶好の逃亡日和だった。




