第4話 沈黙の選別
エンジンの震動が止まった。
運転手がサイドブレーキを引く乾いた音が、車内の空気を区切る。
ジープを取り囲んでいるのは、白い霧だけではなかった。
バリケードの向こう側、廃材と防水布で組まれたテントの群れから、無数の視線が突き刺さっている。
彼らは声を上げない。石を投げるわけでもない。ただ、泥に汚れた顔だけをこちらに向け、ポケットの中で拳を握っている。
「降りろ」
レオニスがドアを開け、革靴を泥の中に踏み下ろした。
私も続く。地面に降りた瞬間、足首までぬかるみに沈んだ。
空気の味が違う。
先ほどの山道では枯れ葉と雨の匂いがしたが、ここは酸っぱい。
煮込みすぎたキャベツ、排泄物、そして消毒用の石炭酸の刺激臭が、湿気の中で層を成している。
「警備はどうなっている」
レオニスが、駆け寄ってきた小隊長に問う。
「物資の搬入は順調ですが、住民の反発が強まっています。特に居住区の西側、旧礼拝堂付近で」
「医務班か」
「はい。負傷兵と民間人が混在しており、混乱しています」
レオニスは顎をしゃくり、歩き出した。
私は彼の背中を追う。
兵士たちが人垣を割り、道を作る。
左右から向けられる視線の中に、唾を吐き捨てる老婆がいた。彼女の足元に落ちた唾液は、すぐに泥と混じって消えた。
礼拝堂は、居住区の広場の奥にあった。
屋根の半分が焼け落ち、黒い梁が肋骨のように空へ突き出している。
入り口には重傷者を乗せた担架が列を成していた。
中に入ると、うめき声の壁にぶつかった。
床には藁が敷き詰められ、その上に毛布にくるまれた人間が隙間なく並んでいる。
カンテラの明かりが、包帯の赤黒い染みを照らしていた。
「将軍! 視察ですか、今は人手が足りません!」
先ほどの眼鏡の医務官が、血に濡れたエプロン姿で叫んだ。
彼は患者の腕に太い注射針を刺しながら、こちらを見向きもしない。
「状況を見に来ただけだ。それと、人員を一人連れてきた」
レオニスが私を指差した。
医務官が顔を上げ、眼鏡の奥で目を細める。
「その女ですか? 看護の経験は?」
「ない。だが、選別はできる」
レオニスは私の背中を押し、担架が並ぶ一角へ進ませた。
そこは比較的静かだった。
声を上げる力もない重傷者か、すでに意識がない者たちが集められている。
「ここで何をするの」
私は小声で聞いた。
「死体と、まだ助かる奴を分けろ」
レオニスは私の耳元で囁いた。声のトーンは、業務連絡そのものだ。
「医務官たちは忙しすぎて、脈を確認する時間すら惜しんでいる。死人に包帯を巻く無駄を省け」
私は足元の男を見下ろした。
顔色は土気色で、胸が動いているようには見えない。
耳を澄ます。
この場所はうるさい。
壁や床、寝台の木枠から、無数の死者の断末魔が響いている。
――母さん。
――熱い。
――なんで俺が。
私は眉間に皺を寄せ、ノイズの層を潜る。
目の前の男に意識を集中する。
音がしない。
「……この人、何も言ってない」
私は言った。
「まだ生きてる。気絶してるだけ」
レオニスが近くにいた衛生兵を呼び、男の首筋に指を当てさせた。
「……脈、あります! 微弱ですが」
衛生兵が叫び、男を処置台へ運び出す。
「次だ」
レオニスが促す。
私は隣の寝台へ移動した。
頭部に包帯を巻かれた若者だ。
――靴が、片方ない。
乾いた声が、彼の胸元あたりから聞こえた。
――あっちの溝に落ちたんだ。拾いに行かなきゃ。寒いから。
声は淡々としていて、すでに肉体の苦痛から切り離されている。
「この人は、もういない」
私は若者の胸を指差した。
「靴を探しに行ってる」
衛生兵が確認する。首を横に振った。
「……死亡しています」
衛生兵は毛布を若者の顔まで引き上げた。
私は作業を続けた。
一人、また一人。
生と死の境界線を歩く。
頭痛がしてくる。死者の声を聞き続けることは、冷たい水の中に手を入れ続けるようなものだ。感覚が麻痺し、体温が奪われていく。
一人の男の前で、足が止まった。
壁際の影に寝かされている、大柄な男だ。
軍服ではなく、民間の作業着を着ている。右足から血を流し、呻き声を上げている。
「うう……痛い、誰か……」
生きている。声も出ている。
だが、私の耳には別の音が届いていた。
男が着ている作業着のポケット。そこから、鋭い金属的な「記憶」が響いている。
――研いだばかりだ。
低い、男の独り言のような残響。
――喉笛を一突き。将校なら誰でもいい。
それは、この男自身の心の声ではない。
彼が握りしめている「凶器」に染み付いた、直前の殺意の残滓だ。
あるいは、このコートの前の持ち主が遺した怨念か。
男の視線が、忙しなく動いている。
彼の目は、治療を待っているのではなく、レオニスの背中を追っていた。
レオニスが、衛生兵に指示を出しながら、その男の近くへ歩いていく。
「待って」
私は声を張り上げた。
レオニスが立ち止まり、こちらを振り返る。
「その人に近づかないで」
寝ていた男の表情が変わった。苦痛の歪みが消え、獣のような険しさが浮かぶ。
「何だ?」
レオニスが私に問うのと同時に、男が毛布を跳ね除けた。
右足の怪我は偽装だったのか、男はバネのように床を蹴った。
手には、黒く塗られた細身のナイフが握られている。
「死ね、侵略者!」
男がレオニスの首元へ飛びかかる。
周囲の衛生兵が悲鳴を上げた。
レオニスは動じなかった。
一歩も引かず、むしろ半歩踏み込み、男の手首を下から掌底で打ち上げた。
ゴキ、と骨が鳴る音がした。
ナイフが空中に舞う。
レオニスはそのまま男の襟首を掴み、床へ叩きつけた。
重い衝撃音。
男が咳き込み、動かなくなる。
護衛の兵士たちが遅れて駆け寄り、男を取り押さえた。
「連行しろ。背後関係を吐かせろ」
レオニスは乱れた袖口を整えながら言った。
そして、床に落ちたナイフを靴の爪先で転がした。
「よく研いである」
彼は私を見た。
「これも聞こえたのか」
「……ナイフが喋ってた」
私は額の汗を袖で拭った。
「将校なら誰でもいいって」
レオニスは足元のナイフを拾い上げ、医務官のトレイに放り投げた。
カラン、と乾いた音が礼拝堂に響く。
「救護所の安全確保だ。これも立派な業務だな」
彼は懐から手帳を取り出し、何かを書き留めた。
「休憩を許可する。十分間だ」
彼は医務官の机から、小さな瓶を一つ掴み、私の方へ投げた。
私は慌てて受け取る。
琥珀色の液体が入った小瓶。ラベルには「蜂蜜シロップ」と書かれている。喉の薬だ。
「声が枯れている。報告が聞き取りづらい」
レオニスはそれだけ言うと、次の患者の列へと歩いていった。
私は瓶の蓋を開けた。
甘い匂いが鼻腔を満たし、一瞬だけ、死臭と消毒液の匂いを消した。
一口飲むと、喉の奥が焼けるように熱くなり、そしてじんわりと緩んだ。
私は礼拝堂の柱に背中を預け、ゆっくりと息を吐いた。
周りでは、まだ負傷者たちのうめき声が続いている。
だが、レオニスが歩くその場所だけ、空気が冷たく整列していくように見えた。




