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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第39話 破り捨てられた紙と手錠の音

 夜のとばりが下りると、高級将校居住区は死んだように静まり返った。

 街灯の明かりだけが、手入れされた生垣やレンガ塀を等間隔に照らし出している。

 私はその光が届かない場所、裏庭に面した用水路の溝に身を潜めていた。


 ポケットの中のジャム瓶を取り出す。

 もう底が見えている。

 人差し指を突っ込み、ガラスの内側にへばりついた赤い粘着物を拭い取るようにすくう。

 口に入れる。

 甘さは薄れ、代わりにガラスの冷たさが舌に残った。


 「……最後の一口ね」

 私は空になった瓶を、音を立てないように草の上に置いた。

 腹の足しにはならないが、脳に糖分を送る儀式としては十分だ。


 目の前には、レオニスの屋敷を取り囲む鉄柵がある。

 表門には憲兵の車両が張り付いているが、裏手には見張りが一人しかいない。

 その見張りも、今は欠伸あくびをしながら少し離れた場所で立ち小便をしている最中だった。


 カツ、カツ。

 

 庭の内側から、足音が近づいてくる。

 土を踏む音ではない。庭に敷かれた石板の上を歩く、硬い革靴の音。

 規則正しい。迷いがない。

 私はそのリズムを知っている。


 足音は鉄柵の向こう側、私の潜んでいる茂みの真正面で止まった。

 暗闇の中に、背の高いシルエットが立つ。


 「……そこにいるな」

 低い声がした。

 問いかけではない。確認の声だ。


 私は茂みから顔を出した。

 「鼻が利くのね、ボス。私はジャムの匂いしかさせてないはずだけど」


 「お前の心臓の音が聞こえるわけではない。ただ、ここが唯一の死角だと教えた覚えがあるだけだ」

 レオニスは柵越しに私を見下ろした。

 部屋着ではない。

 将軍の正装――金ボタンのついた軍服を着込み、襟元まで完璧に整えていた。

 まるで、これから夜会にでも出かけるかのように。


 「おめかしして、どこへ行くの?」

 私は柵の飾りをつかんで立ち上がった。

 「デートなら誘われてないわよ」


 「長い旅になる」

 レオニスは柵の隙間から、何かを差し出した。

 茶色い革の封筒だ。厚みがある。


 「受け取れ」

 「何これ」

 「退職金だ。それと、新しい身分証の手配書が入っている。北部の自治都市へ行け。あそこなら管理局の手は及ばない」


 私は封筒を受け取らず、自分の手をポケットに入れたままにした。

 「再就職の斡旋あっせんまでしてくれるなんて、優良企業ね」

 「皮肉を言っている時間はない。明日の朝、監査局が来る。逮捕状の執行だ」


 「知ってるわ。ヴァレクの遺書も、捏造された証拠も見た」

 私は柵を強く握った。

 「あんた、それを黙って受け入れるつもり?」


 「法的な手続きには従う」

 レオニスの声は平坦だった。

 「俺が抵抗すれば、それを口実に特務隊全員が反逆者として処分される。俺一人の首で済むなら安いものだ」


 「安くないわよ!」

 私は声を荒げそうになり、慌てて口を押さえた。

 見張りは戻ってきていない。まだ大丈夫だ。


 「……私の首も繋がってるのよ」

 声を潜めて続ける。

 「あんたが処刑されたら、私はただの『共犯者』として狩られるだけ。逃げ場所なんてない」


 「だから、それを使えと言っている」

 レオニスは封筒を私の胸元に押し付けた。

 「その金があれば、顔も名前も変えられる。別人として生きろ」


 「嫌よ」

 私は封筒を弾き返した。

 バサリ、と音を立てて、札束の入った封筒が湿った土の上に落ちる。


 レオニスが眉をひそめた。

 「レティ。命令だ」

 「命令権はないはずよ。昨日、契約終了だって言ったのはあんたでしょ」


 私はポケットから、四つ折りにした紙を取り出した。

 第8話で、ジープの中で書かされた契約書だ。

 私の拙い署名と、レオニスの流麗な筆記体。

 私はそれを彼の目の前で広げ、真ん中から引き裂いた。


 ビリッ。

 乾いた音が闇に響く。


 「あーあ、破れちゃった」

 私は紙片をさらに細かくちぎり、風に飛ばした。

 白い紙吹雪が、鉄柵の向こう側へ舞っていく。


 「これで契約は無効。あんたはもう私の上司じゃない」

 私は柵の隙間から手を伸ばし、レオニスの胸元のボタンを指で弾いた。

 「だから、あんたの命令なんか聞かない。私は私のやりたいようにやる」


 レオニスは舞い落ちる紙片を見ていたが、やがて視線を私に戻した。

 その瞳に、呆れと、そして微かな諦念が浮かぶ。


 「……勝手にしろ」

 「ええ、勝手にするわ」

 「だが、俺に関わるな。これ以上近づけば、本当に巻き添えになる」


 彼はきびすを返した。

 落ちた封筒を拾おうともしない。

 その背中は、拒絶を示しているようで、どこか寂しげに見えた。


 「さよなら、レティ」

 彼は屋敷の中へと消えていった。


 私は足元の封筒を拾い上げた。

 ずっしりと重い。

 中を確認する。高額紙幣の束。私が一生働いても稼げない額だ。

 

 「……手切れ金にしては、重すぎるのよ」

 私は封筒をコートの懐にしまい、空になったジャム瓶を拾って立ち去った。

 別れの言葉は言わなかった。

 言う必要がないからだ。


 *


 翌朝、空は鉛色に曇っていた。

 私は屋敷が見える街路樹の上に登り、枝葉の隙間から様子を窺っていた。

 朝霧の中、黒塗りの装甲車が三台、屋敷の正門前に列をなして止まる。


 降りてきたのは、予算局長と、武装した憲兵隊だ。

 局長は勝ち誇った顔で門を開けさせ、大股で敷地内へ入っていく。


 しばらくして、屋敷の扉が開いた。

 レオニスが出てくる。

 彼は昨夜と同じ軍服姿だった。帽子を目深に被り、両手を前に出している。


 ガチャリ。


 金属が噛み合う音が、遠く離れた私の耳にも届いた。

 手錠だ。

 銀色の輪が、彼の手首を拘束する。

 その瞬間、彼の手首に残っていた「銃を握る記憶」や「ペンを走らせる記憶」が、冷たい金属によって遮断されたような気がした。


 「連行しろ!」

 局長の声が響く。

 「国家反逆罪の容疑者だ! 特別房へぶち込め!」


 レオニスは抵抗しなかった。

 彼は憲兵に両脇を抱えられ、装甲車の後部ドアへと押し込まれる。

 乗り込む直前、彼は一瞬だけ視線を上げた。

 私の方を見たわけではない。ただ、空を見上げただけかもしれない。

 だが、その横顔は、昨夜よりも憑き物が落ちたように穏やかだった。


 ドアが閉められる。

 重いロック音。

 エンジンが唸りを上げ、車列が動き出した。


 私は木から降りた。

 タイヤが路面を噛む音が遠ざかっていく。

 

 「……行ったわね」

 私は懐の封筒の感触を確かめた。

 軍資金はある。

 標的は決まった。

 そして何より、私には「解雇通知」を撤回させるという目的ができた。


 「待ってなさいよ、ボス」

 私は装甲車が消えた方角とは逆、下町の方角へ歩き出した。

 「残業代の請求書、直接叩きつけに行ってやるから」


 私の戦いは、ここからが本番だ。

 手持ちの武器は、金と、耳と、空っぽのジャム瓶。

 十分だ。

 世界をひっくり返すには、それだけあれば事足りる。

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