第38話 偽造された遺書
コンクリートの護岸は、一晩中私の体温を奪い続けた。
目が覚めると、全身の関節が錆びついた蝶番のようにギシギシと鳴った。
私は橋の下から這い出し、川の水で顔を洗った。
冷たさが皮膚を刺し、ようやく脳が覚醒する。
通りに出ると、朝のラッシュが始まっていた。
労働者たちが工場のサイレンに急かされ、足早に歩いている。
私はフードを目深に被り、壁際に沿って歩いた。
お腹が鳴る。昨日のビスケット以来、何も食べていない。
だが、今は食欲よりも確認しなければならないことがあった。
街角の掲示板の前に、人だかりができている。
号外だ。
私は人の隙間から、貼り出された紙面を覗き込んだ。
『ヴァレク元少佐、獄中で自殺』
『遺書に衝撃の告白――「すべての不正はレオニス将軍の指示だった」』
見出しが踊っている。
その横には、ヴァレクの遺書の写しが掲載されていた。
震える文字で、レオニスの名前と、架空の命令内容が羅列されている。
「……やるわね」
私は唇を噛んだ。
死人に口なし。
彼らはヴァレクを消し、その罪をすべてレオニスに被せる道を選んだのだ。
これでレオニスは、単なる「横領犯」から「組織犯罪の首謀者」に格上げされた。
「信じられるか? あの将軍がねえ」
隣の男が唾を吐いた。
「英雄だなんて持て囃されてたが、結局は金か」
「腐った麦を食わされた俺たちの身にもなってみろよ」
周囲の空気は冷たい。
誰も疑っていない。新聞という権威がそう書けば、それが真実になる。
私は人混みを離れた。
ヴァレクは本当に自殺したのか?
あの小悪党に、自分で首を吊る度胸があったとは思えない。
確認する必要がある。
死体安置所ではなく、まだ「現場」である軍刑務所へ。
*
軍刑務所は、王都の北外れにあった。
高い塀と、有刺鉄線。
正面から入れるはずもない。だが、ここには毎日、大量の物資が出入りしている。
食料、燃料、そして――「ゴミ」を運び出す回収車。
私は裏門の近くにある集積所に潜んでいた。
洗濯物を積んだ荷馬車が、点検を受けている。
御者が衛兵と話している隙に、私は荷台の下――車軸の上の狭いスペースに体を滑り込ませた。
油と馬糞の臭いが鼻をつく。
馬車が動き出す。
車輪が跳ね上げた泥が、私の頬にこびりついた。
門を通過する。
敷地内に入ると、空気の味が変わった。
シャバの空気ではない。鉄格子と、抑圧された男たちの体臭が混ざった、淀んだ空気。
馬車が洗濯場らしき建物の裏で止まった。
私は反対側から転がり落ち、積み上げられた籠の陰に隠れた。
「……遺体は?」
近くで話し声がする。
「霊安室だ。検死官待ちだよ」
「自殺だってな。縁起でもない」
「首を吊ったシーツ、誰が洗うと思ってるんだ」
兵士たちが去っていく。
霊安室。場所は地下だ。どの施設でも、死体は一番涼しくて暗い場所に置かれる。
私は建物の影を伝って移動した。
地下への通用口。鍵はかかっていない。
重い扉を開けると、ひんやりとした冷気が足元から這い上がってきた。
*
霊安室は、管理局の地下室よりも狭く、そして杜撰だった。
空調が効いていない。
コンクリートの打ちっぱなしの床に、ストレッチャーが一つだけ置かれている。
白いシーツがかけられた隆起。
その足元から、黄色いタグがぶら下がっていた。
部屋には誰もいない。
見張りすら置かれていないのは、死人が逃げ出さないと知っているからだ。
私はストレッチャーに近づいた。
足音が反響する。
シーツをめくる。
ヴァレクの顔が現れた。
土気色に変色し、舌が少し飛び出している。首には赤黒いロープの痕がくっきりと残っていた。
「……久しぶりね、少佐」
私は彼の冷たい額に手を置いた。
「随分と無口になったじゃない」
耳を澄ます。
死後数時間。脳の活動は停止しているが、残留思念はまだ鮮度を保っている。
死の瞬間の恐怖。後悔。そして、強い「強制」の記憶。
――書け。
――書かなければ、娘を殺す。
――学校の帰り道だ。わかっているな。
男たちの声が聞こえる。
昨夜、独房を訪れた訪問者たちだ。
――ペンを持て。震えるな。
――『レオニス将軍の指示でした』。そう書け。
ヴァレクの思考が再生される。
――助けてくれ。死にたくない。
――でも、ミシェル(娘)が。
――ごめん。ごめん。
ペンの音がする。
紙を引っ掻く、迷いと恐怖の音。
彼は自らの意志で遺書を書いたのではない。銃口を突きつけられ、娘の命を天秤にかけられて書かされたのだ。
そして、最後。
――台に乗れ。
――自分で首を通せ。
――蹴り倒せ。
「……自殺に見せかけた処刑ね」
私は手を離した。
ヴァレクは自分の手で椅子を蹴った。だから、他殺の痕跡は残らない。
完璧な「自殺」だ。
「あんたも被害者ってわけか」
私はシーツを戻した。
同情はしない。彼は腐った麦を横流ししたクズだ。
だが、そのクズを利用して英雄を貶める連中は、もっとタチが悪い。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
一人ではない。複数の、硬い軍靴の音。
「……検死は形だけでいい」
低い声が響く。
「早急に火葬して、遺族に返せ。証拠品は全て本部に移送済みだ」
予算局長の声だ。
ここにも来ていたのか。
私は隠れる場所を探した。
部屋には何もない。ストレッチャーの下か、あるいは……。
私は部屋の隅にある、掃除用具が入ったロッカーを開けた。
モップとバケツの隙間に体をねじ込む。
鉄の扉を細く開け、隙間から外を窺う。
ドアが開き、局長と、白衣を着た軍医が入ってきた。
局長はハンカチで鼻を押さえている。
「臭うな。さっさと終わらせろ」
「はっ。死亡推定時刻は昨夜未明。死因は頸部圧迫による窒息死。典型的な縊死です」
軍医はシーツをめくりもせず、書類にサインをした。
「外傷なし。争った形跡もなし。これでよろしいですか」
「十分だ」
局長は満足げに頷いた。
「これでレオニスの罪は確定した。逮捕状の請求が通る」
「逮捕状……ですか?」
軍医がペンを止める。
「しかし、彼は将軍です。物的証拠が遺書だけでは……」
「証拠なら他にもあるさ」
局長はニヤリと笑った。
「彼の執務室から、大量の現金と、敵国との内通を示す暗号文が見つかったよ。……まあ、今朝見つかったことになっているがね」
捏造だ。
あの時、彼がレオニスの机に座り込んでいたのは、証拠を植え付けるためだったのだ。
「罪状は?」
「国家反逆罪だ」
局長は言った。
「明日の朝、連行する。裁判は非公開。即決で極刑だ」
極刑。
死刑ということだ。
私はロッカーの中で口元を押さえた。
心臓の音がうるさい。バレるのではないかとヒヤヒヤする。
「行くぞ。ここは空気が悪い」
局長たちは足早に出て行った。
ドアが閉まり、静寂が戻る。
私はロッカーから這い出した。
足が震えている。
これは恐怖ではない。武者震いだと思いたい。
「国家反逆罪……」
私はヴァレクの遺体を見下ろした。
「あんたの嘘のおかげで、ボスが死刑になるってさ。地獄で詫び続けなさいよ」
私は霊安室を出た。
裏口から外へ出る。
日は高く昇っていたが、私の視界は暗かった。
明日の朝、レオニスが連行される。
それまでに何とかしなければならない。
だが、私には何もない。金も、権力も、証拠もない。
あるのは、この耳と、少しのジャムと、そして意地だけだ。
私は塀の向こう、王都の空を見上げた。
どこかで鐘が鳴っている。
それは、終わりの合図のように聞こえた。




