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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第37話 路地裏の拒絶と壁に残った伝言

 路地の奥から吹き抜ける風が、濡れたコートを冷やし、体温を奪っていく。

 私は建物の隙間に体を滑り込ませ、荒い息を整えた。

 遠くでサイレンの音が旋回している。私を探しているのか、それとも別の獲物を追っているのか。


 ポケットの中のビスケットを取り出す。

 湿気て柔らかくなっていた。

 一口かじる。粉っぽい味が口の中に広がり、喉の渇きを助長する。

 ミレイナがくれた非常食だ。味わって食べなければ罰が当たる。


 「……さて、どうするか」

 私は壁に背中を預けたまま、空を見上げた。

 雲が低く垂れ込め、街の灯りを濁らせている。

 行く当てはない。

 寮は追われ、職場は封鎖され、口座は凍結された。

 手持ちの資産は、食べかけのジャムと飴、それに軟膏だけ。


 「ミレイなら、匿ってくれるかも」

 独り言が口をついて出た。

 あの商魂逞しい女なら、私を倉庫の隅に隠し、レオニスに高額な請求書を送りつけるくらいのことはするだろう。

 私はコートの襟を立て、大通りの裏側――ミレイ商会の勝手口へと続く細い道を歩き出した。


 *


 商会の裏口は、表通りの華やかさとは無縁の、レンガとゴミ箱が並ぶ薄暗い場所にあった。

 窓から漏れる光が、濡れた地面を四角く切り取っている。


 私はゴミ箱の陰から様子を窺った。

 勝手口のドアが少しだけ開いている。

 そこから、ミレイの後ろ姿が見えた。

 彼女は腕を組み、誰かと話している。


 「だから、知らないと言っているでしょう。あの子がここに来るわけがないわ」

 ミレイの声だ。不機嫌さを隠そうともしていない。


 「協力してください、ミレイ代表」

 男の声が答える。低い、事務的な響き。

 「彼女は重要参考人です。逃亡を助ければ、貴社の業務にも支障が出ますよ」


 私は足を止めた。

 憲兵ではない。監査課の人間か、あるいは「蛇」の息がかかった連中か。


 耳を澄ます。

 店内の音を拾う。


 ――待機。

 ――裏口は押さえた。

 ――来たら確保する。


 複数の「待ち伏せ」の思考が聞こえる。

 ドアの陰、カウンターの下、二階の窓際。

 店全体が、ネズミ捕りの箱になっている。


 ミレイは知っているのだ。

 だから、わざとドアを開けて、大声で「知らない」と言った。私に「来るな」と伝えるために。


 「……商売上手ね」

 私は苦笑し、後ずさった。

 ここで飛び込めば、ミレイまで共犯者になる。

 彼女にはまだ、私のために美味しいスコーンを焼いてもらわなければならない。


 私はきびすを返し、闇に紛れた。

 リサの診療所も同じだろう。

 レオニスの関係者は全員、監視下にある。

 私は完全に孤立していた。


 *


 足が勝手に、高級将校居住区へと向かっていた。

 レオニスの家だ。

 彼が自宅謹慎中なら、そこにいるはずだ。

 会えなくてもいい。せめて、無事かどうかだけでも確認したい。


 居住区の通りは静まり返っていた。

 街灯が等間隔に並び、手入れされた街路樹を照らしている。

 だが、レオニスの家の前だけ、異質な空気が漂っていた。


 門の前に、憲兵の車両が停まっている。

 家の窓にはカーテンが引かれ、明かりは漏れていない。

 庭には見張りの兵士が立ち、タバコの火が蛍のように明滅していた。


 「……鉄壁ね」

 私は街路樹の陰から、レンガ造りの塀を見つめた。

 近づくことさえできそうにない。


 私は塀に沿って歩いた。

 裏手に回れば、もしかしたら隙があるかもしれない。

 

 角を曲がったところにある、古い街灯。

 その支柱に、ふと目が留まった。

 塗装の剥げた鉄の柱。

 そこに、微かな、しかし強烈な「意志」が残っていた。


 私は吸い寄せられるように近づき、素手で支柱に触れた。

 冷たい鉄の感触。

 その奥から、馴染みのある思考が流れ込んでくる。


 ――来るな。

 ――逃げろ。


 レオニスの声だ。

 録音された音声ではない。彼が連行される際、一瞬だけここに手を突き、強く念じた思考の残滓ざんし


 ――リサとミレイには近づくな。巻き込むことになる。

 ――一人で生き延びろ。契約は終わりだ。


 「……馬鹿なボス」

 私は支柱に額を押し付けた。

 「契約終了なんて、聞いてないわよ」


 彼はわかっていたのだ。

 私がここに来ることも、ミレイたちを頼ろうとすることも。

 だから、ここに「伝言」を残した。

 私を突き放すことで、私を守ろうとしている。


 「勝手に終わらせないでよ」

 私は支柱を一度だけ叩き、その場を離れた。

 涙は出なかった。

 代わりに、腹の底で黒い怒りの火が燃え始めた。


 *


 私は運河沿いの橋の下に潜り込んだ。

 風は凌げるが、湿気が酷い。

 コンクリートの護岸に座り込み、ジャムの瓶を取り出す。

 スプーンはない。

 指ですくって舐める。

 甘さが脳に染みるが、空腹は満たされない。


 その時、砂利を踏む音がした。

 憲兵の重いブーツの音ではない。

 もっと柔らかい、革靴の音。


 「……辛そうだね」

 闇の中から男が現れた。

 仕立ての良いコートを着ている。帽子を目深に被り、顔は見えない。

 だが、その声には聞き覚えがあった。

 あの壊れた工場で、私の耳に粘りついた「監視者」たちの気配と同じ周波数。


 私はジャム瓶を抱えたまま、身構えた。

 「誰?」


 「味方だよ」

 男はハンカチを取り出し、地面に敷いてから腰を下ろした。

 「君を探していたんだ。特務調査員レティ……いや、『アナスタシア』と呼ぶべきかな」


 心臓が跳ねた。

 その名前を知っている。


 「人違いよ。私はただのレティ」

 「隠さなくていい。我々は君の『価値』を知っている」

 男は穏やかな口調で続けた。

 「レオニス将軍は失脚した。彼はもう君を守れない。それどころか、君を『共犯者』として道連れにしようとしている」


 「だから?」

 「取引をしよう。君が法廷で証言するんだ。『すべてレオニス将軍に命令された』と。『子供たちの誘拐も、工場の破壊も、彼が主導した』とね」


 男は懐から封筒を取り出した。

 厚みがある。金貨の重さではない。紙幣か、あるいはパスポートか。

 「報酬は、君の自由と安全。そして『本当の身分』の回復だ。亡国の遺児としてではなく、名誉ある市民として生きられる」


 耳を澄ます。

 男の言葉の裏にある、ドロドロとした思考。


 ――使えなくなったら処分すればいい。

 ――『鍵』さえ手に入れば、ガキに用はない。

 ――レオニスを埋めるための最後の土だ。


 「……ふーん」

 私はジャムのついた指を舐めた。

 「いい条件ね。温かいベッドと、美味しい食事もつく?」

 「もちろんだ。君が望むなら、毎日ケーキを食べさせてあげよう」


 私は立ち上がった。

 男も期待に満ちた顔で立ち上がる。


 「じゃあ、答えをあげる」

 私は右手を突き出した。

 中指を立てて。


 「お断りよ。あんたたちのケーキは、腐った泥の味がしそうだもの」


 男の顔から笑みが消えた。

 「……後悔するぞ。これが最後のチャンスだ」


 「後悔なら慣れてるわ。それより、忠告してあげる」

 私はジャム瓶を握り直した。

 「私のボスは、檻に入れられたくらいで大人しくしてる男じゃないわよ。あんたたちが寝首をかかれる前に、逃げたほうがいいんじゃない?」


 私は男の横をすり抜け、橋の下から出た。

 男は追ってこなかった。

 ただ、背後から冷たい殺意の視線だけが、背中に突き刺さっていた。


 私は夜の街を歩き出した。

 行く当てはない。味方もいない。

 けれど、迷いは消えていた。

 レオニスが「逃げろ」と言ったのなら、私はその命令に逆らう。

 それが、私の選んだ「契約」の形だ。

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