第36話 凍りついた窓口と路上のジャム
予算局長の高笑いを背中で聞きながら、私は廊下を歩いた。
靴音がやけに大きく響く。
すれ違う職員たちは、私を見ると露骨に顔を背け、壁際に寄って道を空けた。まるで私が歩く病原菌か何かであるかのような扱いだ。
私はポケットの中の通帳に触れた。
レオニスが作ってくれた、給与振込用の口座。
契約終了と言われたが、働いた分の給料は貰う権利がある。特に、昨日の工場突入の危険手当と、残業代は。
私はエレベーターを降り、一階の総務課へ向かった。
カウンターには、長い列ができていた。
私は『給与・手当』の窓口に並んだ。
担当しているのは、先日私が書類探しを手伝ってやった、あのアームカバーの事務官だった。
彼は私を見ると、あからさまに表情を強張らせた。
「……何の用だ」
彼は私の顔を見ずに、手元の書類を整理するふりをした。
「払い戻しよ。全額引き出したいの」
私は通帳をカウンターに滑らせた。
事務官は通帳を手に取ろうともしなかった。
「無理だ」
「なぜ?」
「特務隊の関連口座はすべて凍結された。監査課の命令だ。1セントたりとも動かせない」
「私の個人口座よ」
「名義人は君だが、原資は特務隊の機密費から出ている。調査が終わるまではロックされる」
彼は冷淡に言い放ち、次の人を呼ぼうとした。
「次の方――」
「ちょっと」
私はカウンターの縁を掴んだ。
「先週、あんたのクビが飛びそうになったのを助けたのは誰だったかしら? 引き出しの裏の封筒、もう忘れたの?」
事務官の手が止まった。
彼は周囲を盗み見ると、身を乗り出して声を潜めた。
「……恩は感じている。だが、今は状況が違う」
彼の目には、焦りと保身の色が浮かんでいた。
耳を澄ます。
彼の心の声が、言い訳を並べ立てている。
――関わるな。見られている。
――レオニスは終わりだ。沈む船に乗る義理はない。
――俺には家族がいるんだ。
「……そう」
私はカウンターから手を離した。
「家族は大事よね。沈む船から逃げるネズミの気持ち、よくわかるわ」
「わかってくれとは言わない。ただ、帰ってくれ」
彼は私の通帳を指先で弾き返した。
床に落ちる。
私はそれを拾い上げ、埃を払ってポケットにしまった。
紙切れ一枚の重さが、急に増した気がした。
ロビーを出て、私は走った。
金が引き出せないなら、せめて私物だけは確保しなければならない。
寮の部屋には、まだ着替えや日用品、そして何よりミレイナとお茶をするためのカップが置いてある。
中庭を抜け、B棟の入り口へ向かう。
そこにはすでに、黒い塗装の車両が二台停まっていた。
憲兵隊の車両だ。
「どきなさい!」
私は入り口を塞ぐ憲兵の脇をすり抜け、階段を駆け上がった。
管理人の部屋は無人だった。いつもならラジオが流れているはずなのに、今日は静まり返っている。
三階の廊下には、荒らされたような痕跡があった。
ドアが開け放たれ、誰かの荷物が廊下に放り出されている。
三〇五号室の前にも、憲兵が立っていた。
「何してるの!」
私は部屋に飛び込んだ。
中は酷い有様だった。
私のベッドはひっくり返され、マットレスが切り裂かれている。
引き出しの中身は床にぶちまけられ、憲兵たちが土足でそれを踏みつけていた。
同室のミレイナは、部屋の隅で縮こまって泣いていた。
「やめて……それ、私の服よ……関係ないわ……」
「証拠品捜索だ。邪魔をするな」
憲兵の一人が、ミレイナの枕をナイフで裂いた。白い羽毛が舞う。
「関係ないでしょ!」
私は憲兵の腕に噛み付こうとしたが、別の憲兵に襟首を掴まれ、壁に叩きつけられた。
背中を強打する。肺の空気が強制的に押し出された。
「お前か、レオニスの飼い犬は」
隊長らしき男が、私の前に立った。
「退去命令が出ている。この部屋は特務隊の管轄だが、今日から封鎖だ」
「私の私物は? ここにあるのは全部私のものよ」
「盗品の疑いがある。すべて押収する」
男は私の机の上にあったジャムの瓶を手に取った。
まだ半分残っている、ミレイの店の高級ジャム。
「いいもん食ってるな。これも横領した金か?」
「返して。それは貰い物よ」
「証拠品だ」
男はニヤリと笑い、瓶をゴミ袋へ放り込もうとした。
私は床を蹴った。
男の脛を思い切り踏みつける。
「ぐっ!」
男がバランスを崩し、瓶が手から離れる。
私は空中で瓶をキャッチし、そのまま転がってミレイナの足元へ滑り込んだ。
ついでに、床に落ちていた私の飴の缶も拾う。
「……レティ」
ミレイナが涙目で私を見下ろしている。
彼女の手には、私があげた赤いガラス玉が握りしめられていた。
「ごめんね、ミレイナ」
私は立ち上がり、ジャム瓶をコートの懐に入れた。
「部屋、滅茶苦茶にしちゃって」
「ううん……」
ミレイナは首を振った。
彼女は私のポケットに、何かを押し込んだ。
硬い感触。
ビスケットだ。彼女の非常食だろう。
「逃げて」
彼女は小声で言った。
「あいつら、あなたを捕まえて『自白』させる気よ」
憲兵たちが体勢を立て直し、警棒を抜いて迫ってくる。
「ガキが……公務執行妨害で逮捕するぞ!」
私は窓を見た。
三階だ。飛び降りれば足が折れる。
だが、窓の外には雨樋が走っている。
「逮捕? 令状はあるの?」
私は窓枠に足をかけた。
「ないなら不法侵入よ。泥棒さんたち」
私は窓を開け放ち、雨樋に飛び移った。
錆びた金具が嫌な音を立ててきしむ。
下を見るな。
「待て!」
憲兵が窓から身を乗り出す。
私は雨樋を滑り降りた。
摩擦で掌が熱くなる。
二階、一階。
地面が見えた瞬間、私は手を離して着地した。
足首に衝撃が走るが、折れてはいない。
「裏に回れ! 逃がすな!」
上から怒声が降ってくる。
私は走った。
寮の裏庭を抜け、塀をよじ登る。
背後でサイレンの音が鳴り始めた。
*
大通りへ出ると、私は人の波に紛れ込んだ。
息が切れている。心臓が早鐘を打っている。
私は路地裏の樽の陰に座り込み、呼吸を整えた。
ポケットを確認する。
ジャムの瓶。飴の缶。リサの軟膏。
そして、ミレイナがくれたビスケットが二枚。
通帳はただの紙屑になった。
着替えもない。身分証も、きっともう使えないだろう。
「……手荷物が軽くなって、清々しいわね」
私は強がりを呟き、ビスケットを一枚かじった。
口の中の水分が奪われる。
通りを行く人々は、誰も私を見ない。
昨日までは「特務調査員」だった私は、今日、ただの浮浪児に戻った。
耳を澄ます。
遠くから、憲兵隊の車両が走る音が聞こえる。
――探せ。
――女だ。灰色のコート。
――見つけ次第、確保しろ。
街中が敵だらけだ。
私はビスケットを飲み込み、立ち上がった。
行く当てはない。
だが、ここに留まっていれば、あの予算局長の思い通りになるだけだ。
私はコートの襟を立て、風の吹く方へ歩き出した。
空は曇っていた。
雨が降らないことだけを祈りながら。




