第35話 奪われた椅子
売店の親父が、釣銭のコインを放り投げるように渡してきた。
私はそれを空中で掴み取り、カウンターに積まれた朝刊の束から一部を引き抜いた。
紙面は湿気を含んで重く、安い紙の独特な酸っぱい匂いがした。
「世も末だな」
親父がタバコを吹かしながら吐き捨てた。
「軍隊が民間工場を襲って、金庫を奪うなんて。戦時中と変わらない略奪じゃないか」
私は紙面の一面に目を落とした。
太いゴシック体の大見出し。
『特務隊、東区画で暴走――罪なき工場を武力制圧』
その下には、私たちが突入した工場の写真。そして、瓦礫の前で頭を抱えてうずくまる工場長の姿が掲載されていた。被害者としての完璧な構図だ。
記事には、彼が「地下で違法な薬を作っていた」ことも、「子供たちを監禁していた」ことも書かれていない。
あるのは、「武装した兵士による不当な破壊活動」と、「重傷を負わされた工場長の悲痛な訴え」だけだ。
「……よく撮れてるわね」
私は新聞を四つ折りにし、コートのポケットにねじ込んだ。
「カメラマンの腕がいいみたい。捏造の才能もあるわ」
「あん?」
親父が怪訝な顔をする。
私は答えず、踵を返した。
ポケットの中で、新聞紙がガサガサと不快な音を立てる。
リサからもらった軟膏の壺が、硬い異物として腰に当たった。
管理局の正門前には、昨日とは違う空気が漂っていた。
衛兵の数が増えている。
私がゲートをくぐろうとすると、いつもの顔見知りの衛兵が、視線を合わせずに手で制止した。
「身分証を」
「顔パスでしょ?」
「規則です。提示を」
彼は事務的に言ったが、その指先は小刻みに震えていた。
私は首から下げたカードを見せた。
衛兵は時間をかけてカードを確認し、無言でゲートを開けた。
「……気をつけてください」
すれ違いざま、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「中、荒れてます」
*
ロビーに入ると、喧騒がピタリと止んだ気がした。
職員たちの視線が一斉に私に集まり、そして蜘蛛の子を散らすように逸らされる。
ヒソヒソという話し声。
――あの子だ。
――将軍の連れだ。
――関わるな。巻き添えになる。
私は顔を上げ、靴音を高く響かせて歩いた。
エレベーターホールへ向かう。
いつもなら満員のエレベーターが、私がボタンを押した途端に無人になった。
誰も一緒に乗りたがらないのだ。
私は一人で鉄の箱に乗り込み、四階のボタンを押した。
四階の廊下には、見知らぬ制服を着た男たちが立っていた。
腕章に『監査』の文字。
憲兵隊の内部監査課だ。
彼らはレオニスの執務室の前に陣取り、書類の入った段ボール箱を運び出していた。
「ちょっと」
私は先頭の男の前に立ち塞がった。
「私のボスの私物をどこへやる気?」
男は私を見下ろし、無言で横へ退かそうとした。
私は動かない。
「聞こえないの? 泥棒さん」
「通せ」
執務室の中から声がした。
レオニスの声ではない。もっと粘着質で、聞き覚えのある声だ。
私は男を押しのけ、部屋に入った。
執務室の風景は一変していた。
レオニスの机の上に、書類が散乱している。
そして、彼の革張りの椅子には、あの禿頭の男――予算局長が、ふんぞり返って座っていた。
手には太い葉巻。
部屋中が紫煙で白く霞んでいる。
レオニスは窓際に立っていた。
武装は解除されている。腰のホルスターはなく、上着の階級章も外されていた。
二人の憲兵が、彼の左右を固めている。
「遅かったな、お嬢ちゃん」
予算局長が葉巻の煙を吐き出した。
「君の席はないよ。もうここは、特務隊の部屋ではない」
「私の席はソファよ」
私はいつもの定位置に座ろうとしたが、そこにはすでに押収された書類の山が積まれていた。
仕方なく、私は部屋の中央に立った。
「どういうこと、ボス」
私はレオニスを見た。
「新聞の三文記事を信じた馬鹿が、ここに座ってるだけ?」
レオニスは窓の外を見たまま、淡々と言った。
「内部監査だ。今回の工場制圧作戦において、重大な規律違反と、横領の疑いがあるとな」
「横領? 誰が?」
「我々だよ」
予算局長が机を叩いた。
「工場長からの告発状が出ている。貴官らは工場に押し入り、金庫から活動資金を強奪した。その口封じに、彼を暴行し、あまつさえ『子供を監禁していた』などという狂言をでっち上げた」
私は開いた口が塞がらなかった。
「狂言? 子供たちは? 私たちが助け出した数百人はどこへ行ったの?」
「そんなものは存在しない」
局長は一枚の書類を放り投げた。
「現場検証の結果、工場内から児童がいた痕跡は発見されなかった。リサ医師の証言も『錯乱状態』として却下された」
「痕跡がない?」
私は一歩踏み出した。
「檻があったわ。血のついたチューブも、ボイラー室の骨も」
「清掃済みだ」
局長はニヤリと笑った。
「衛生局が立ち入り検査を行ったが、清潔な工場だったそうだよ。少々、配管が古かったがね」
もみ消された。
一夜にして。
工場の証拠も、子供たちの存在も、すべてが権力の雑巾で拭き取られてしまったのだ。
耳を澄ます。
局長の思考を聞く。
――うまくいった。
――これで別荘の件もチャラだ。
――『蛇』からの報酬も弾むだろう。
「……聞こえるわよ」
私は局長を睨みつけた。
「あんたの心の声。随分と楽しそうね。『蛇』からいくら貰ったの?」
局長の顔が引きつった。
だが、彼はすぐに嘲笑に変えた。
「幻聴か? 可哀想に。戦場のショックでおかしくなった子供の証言など、法廷では何の価値もない」
彼は憲兵に合図した。
「レオニス元将軍を連行しろ。査問会まで自宅謹慎だ。一歩も外へ出すな」
「待って」
私はレオニスに駆け寄ろうとした。
憲兵が私の前に立ち塞がる。
「レティ」
レオニスが初めて私を見た。
その目は、いつも通りの冷徹な色をしていたが、奥に強い光が宿っていた。
「帰れ」
彼は短く言った。
「ここはもう職場ではない。給与の支払いも停止される」
「は? 何言ってるの」
「契約終了だ。お前はただの民間人に戻る」
彼は憲兵に促され、歩き出した。
すれ違いざま、彼は私の耳元で囁くことなく、ただ視線だけでポケットを示した。
私がいつも飴を入れているポケットを。
「……おい、その子供も調べろ」
局長が叫んだ。
「共犯者だ。所持品を検査して……」
「民間人への捜査権限は、監査課にはないはずだが」
レオニスが足を止めずに言った。
「それとも、局長は職権濫用の上書きをするつもりか?」
局長は言葉に詰まり、忌々しそうに手を振った。
「……いいだろう。どうせ薄汚いガキだ。放り出せ」
レオニスは連行されていった。
私は部屋に残された。
予算局長が、我が物顔でレオニスの椅子に座り直し、新しい葉巻に火をつける。
「さあ、出て行け」
局長が煙を吐いた。
「ここは、大人の仕事場だ」
私はポケットの中で拳を握りしめた。
飴の缶の硬い感触がある。
「……そうね」
私は踵を返した。
「空気が悪すぎて、長居すると肺が腐りそうだわ」
私はドアを蹴るようにして開け、廊下へ出た。
背後で、局長の嘲笑う声が聞こえた。
だが、私の耳には、もっと別の音が聞こえていた。
レオニスの机の引き出し。
彼が連行される直前、指先で何かを「弾いた」微かな音。
それが何を意味するのか、今はまだわからない。
私は自分の荷物――飴の缶と、もらったばかりの軟膏――だけを持って、敵だらけになった廊下を歩き出した。




