第34話 スコーンの粉
路面電車のベルが鳴った。
鉄の車輪がレールを擦る高い音が、午後の大通りの喧騒に溶け込んでいく。
私はショーウィンドウのガラスに映る自分を見た。
清潔な白いシャツに、紺色のスカート。その上から、いつもの軍用コートを羽織っている。
中身は民間人、外見は軍属というちぐはぐな格好だ。
「歩くのが遅い」
数歩先を行くレオニスが振り返った。
彼も今日は軍服ではない。グレーのジャケットに、襟のないシャツ。市場の労働者のようにも、休日の銀行員のようにも見える。
だが、その歩き方だけは隠せていない。背筋が伸びすぎているし、周囲への警戒を怠らない視線の動きは、完全に職業軍人のそれだ。
「ショーウィンドウを見てただけよ。あそこのマネキン、私よりいい服着てる」
「マネキンは寒さを感じない。服の機能性は無視されている」
「夢がないわね」
私は小走りで彼に追いついた。
今日は「市場調査」という名目の買い出しだ。
レオニスは渋ったが、「ジャムがないと脳が働かない」という私の主張と、「ミレイへの義理立てが必要だ」という実利的な理由で押し切った。
ふと、背筋がざわついた。
音ではない。視線だ。
誰かが、雑踏の中からじっとこちらを見ている。
私は立ち止まり、靴紐を結び直すふりをして振り返った。
行き交う人々。買い物かごを下げた主婦、新聞を読む老人、花売りの少女。
怪しい人物はいない。
耳を澄ます。
――高い。値上げしすぎだ。
――今夜のシチューはどうしよう。
――早く帰りたい。
聞こえてくるのは、日常的な生活の悩みだけ。
敵意や監視の思考音は拾えない。
「……気のせいか」
私は立ち上がった。
「どうした」
レオニスが戻ってくる。
「なんでもない。野良犬でもいたかと思っただけ」
私は彼の手を引いた。
「行こう。スコーンが冷めるわ」
*
『ミレイ商会・王都本店』は、大通りの一等地に構えられていた。
磨き上げられた真鍮のドアノブ。大きなガラス窓。
店内に入ると、ベルがカランと涼やかな音を立てた。
紅茶の茶葉と、焼きたての菓子の香りが漂ってくる。
「いらっしゃい。珍しい組み合わせね」
カウンターの奥からミレイが現れた。
今日は店舗用のエプロンをつけているが、その下は上質なシルクのブラウスだ。
彼女はレオニスの私服姿を見て、口笛を吹いた。
「あら、将軍閣下も服を脱げば人間に見えるのね」
「ジャムを買いに来ただけだ」
レオニスは無愛想に答え、陳列棚の瓶を指差した。
「イチゴを一つ」
「あとマーマレードも」
私が横から口を挟む。
ミレイは笑い、奥のテーブル席を顎で示した。
「用意してあげるから座りなさい。ちょうど焼き上がったところよ」
私たちは窓際の席に座った。
すぐに、銀のトレイに乗った紅茶とスコーンが運ばれてくる。
スコーンは狐色に焼け、横にはクロテッドクリームとジャムが添えられていた。
私はスコーンを割り、クリームをたっぷりと乗せた。
口に運ぶ。
サクサクとした生地が崩れ、濃厚な乳脂肪の味が広がる。
「……天国」
私は頬を緩めた。
「これなら毎日戦場に行ってもいい」
「戦場をカフェテリアと勘違いするな」
レオニスは紅茶を一口啜り、カップを置いた。
ミレイが向かいの席に座り、足を組んだ。
彼女の表情から、商売人の愛想笑いが消える。
「……で、聞いたわよ。東の工場のこと」
彼女は声を潜めた。
「派手にやったわね。工場長を締め上げて、子供たちを解放したって?」
「業務の一環だ」
レオニスはスコーンには手を付けず、ミレイを見た。
「不法投棄と誘拐の現行犯だ。見逃す理由はない」
「正論ね。でも、管理局の上層部はそう思っていないみたい」
ミレイは指先でテーブルを叩いた。
「私の耳に入ってきた噂だと、昨日の会議であなたの解任動議が出されかけたそうよ。『独断専行が過ぎる』ってね」
レオニスは表情を変えなかった。
「現場の判断だ。書類仕事しかできない連中に何がわかる」
「わからなくていいのよ、彼らは」
ミレイは冷たく言った。
「彼らが欲しいのは秩序とメンツだけ。あなたが正義を行えば行うほど、彼らの無能さが際立つ。それが気に入らないの」
彼女は私を見た。
「レティ、あなたも気をつけなさい。将軍の『腰巾着』としてマークされてるわよ。特に、あの予算局長あたりにね」
「あのハゲ狸?」
私はジャムを掬いながら言った。
「私のことを調べる暇があるなら、自分の裏帳簿の心配でもすればいいのに」
「追い詰められたネズミは猫を噛むのよ」
ミレイは立ち上がった。
「ジャムは包んでおくわ。代金は結構。その代わり、死なないでね。あなたたちは私の上客なんだから」
*
店を出ると、日は傾きかけていた。
建物の影が長く伸び、路上のレンガを灰色に染めていく。
私は紙袋に入ったジャムの瓶を抱え、レオニスの横を歩いた。
「……ミレイの言う通りかもね」
私は足元の影を見つめた。
「最近、庁舎内での視線が痛いの。みんな、私たちが疫病神か何かだと思ってる」
「気にするな」
レオニスは前を向いたまま言った。
「俺たちはやるべきことをやった。子供たちを救い、犯罪者を捕らえた。それが間違っていると言うなら、この国の方が狂っている」
「狂ってるのかもよ、この国」
私は呟いた。
オートミールの味しかしない食堂。腐った麦を売りつける商人。そして、子供を材料にする工場。
狂っていない場所を探す方が難しい。
その時、またあの感覚がした。
背中に張り付くような視線。
さっきよりも近く、そして粘着質だ。
私は立ち止まらず、ショーウィンドウのガラス越しに背後を確認した。
人混みの中に、帽子を目深に被った男がいる。
新聞を読んでいるフリをしているが、その視線はこちらを向いていた。
耳を澄ます。
――歩け。
――路地には入るな。
――まだ撃つな。
男の思考ではない。
男が耳につけているイヤホンから漏れる、無線機の声だ。
指示を受けている。
「レオニス」
私は小声で呼んだ。
「後ろ。右斜め後方、新聞を持った男」
「気づいている」
レオニスは歩調を変えなかった。
「尾行だ。だが、手出しはしてこない。監視が目的だろう」
「気持ち悪いわね」
「泳がせておけ。下手に刺激すると、噛み付いてくる」
私たちは大通りを渡り、管理局の方角へ向かった。
尾行者は一定の距離を保ったままついてくる。
平和な休日のショッピングの帰りに、見えない銃口を突きつけられている気分だ。
私は紙袋の中のジャム瓶を強く握りしめた。
ガラスの冷たさが、甘いスコーンの余韻を消していく。
嵐は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
レオニスがふと、私の肩に手を置いた。
「帰ったら、またオムレツを作ってやる」
「……え?」
「塩は自分で入れろ」
不器用な慰めだった。
私は少しだけ笑った。
「わかったわ。胡椒もたっぷりかけさせてもらう」
背後の視線は消えなかったが、肩に乗せられた手の温かさだけは、寮に着くまで消えなかった。




