第33話 休日のガーゼ
消毒液の冷たい感触のあと、皮膚が引きつるような感覚があった。
金属の鋏がパチンと鳴り、ピンセットが私の掌から黒い糸を引き抜く。
チクリとした痛みが走るが、工場の鉄梯子を登った時の熱さに比べれば、蚊に刺された程度だ。
「はい、終わり」
リサがピンセットをトレイに投げ入れた。カラン、と高い音が響く。
彼女はゴム手袋を外し、ゴミ箱へ捨てた。
「綺麗にくっついてるよ。化膿もしてない。あんたの回復力は野良猫並みだね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私は右手をかざして確認した。
赤い線が掌を横切っているが、傷口は塞がっている。指を動かしても引きつれはない。
リサは棚から小さな陶器の壺を取り出し、私の前に置いた。
白磁の容器に、金色のラベルが貼られている。軍の支給品ではない。市井の薬局で売られている高級品だ。
「持って行きな。傷跡を消す軟膏だ」
「……これ、高いやつでしょ」
私は壺を手に取った。ずっしりと重い。中身よりも容器の値段が高そうだ。
「私の給料じゃ払えないわよ」
「請求先は別だよ」
リサは新しいシガレットに火をつけた。
紫煙を天井へ吹き上げる。
「あの鉄面皮の将軍が置いていったんだ。『跡が残ると業務に支障が出る』とか理屈をこねていたけどね。わざわざ朝一番に届けに来るなんて、彼にしてはマメなことだ」
私は壺の蓋を開けた。
ハーブの清涼な香りが漂う。
「へえ。あのボスがね」
「大事に使いなよ。それ一瓶で、私の給料の一週間分はするんだから」
私は蓋を閉め、ポケットにしまった。
質屋に持っていけばいい値がつきそうだが、バレたら何をされるかわからない。大人しく塗ることにする。
「ありがとう、先生」
私は椅子から降りた。
「次は怪我する前に来るわ」
「来ないのが一番だよ。……まあ、あの男と一緒にいる限り無理だろうけどね」
リサの手を振り払い、私は診療所を出た。
外は晴れていた。
路地の水たまりが陽光を反射して眩しい。
今日は非番だ。
書類整理も、泥水の中の行軍もない。
ただ、腹が減っていた。
*
王都の高級将校居住区は、私の住む寮とは空気が違っていた。
道幅が広く、街路樹が整備されている。
すれ違う人々も、書類を抱えて走ったりはしない。犬を連れて散歩する老婦人や、乳母車を押すメイドの姿が見える。
私は一際大きなレンガ造りの建物の前で足を止めた。
真鍮のプレートに『レオニス』とだけ刻まれている。
呼び鈴を押す。
しばらくして、重厚な扉が開いた。
レオニスが立っていた。
軍服ではない。襟の開いた白いシャツに、スラックスというラフな格好だ。袖を肘まで捲り上げている。
彼は私を見て、少しだけ眉を上げた。
「……何か用か。今日は休みのはずだが」
「抜糸が終わったの。報告に来たわ」
私は掌を見せた。
「それと、お腹が空いた。寮の食堂は今日、またオートミールだって噂なのよ」
レオニスは呆れたように息を吐き、ドアを大きく開けた。
「入れ。余り物でよければ食わせてやる」
部屋の中は広かったが、家具は最低限しかなかった。
革張りのソファ、ローテーブル、壁一面の本棚。
生活感がない。モデルルームのようだ。
ただ、キッチンのほうから、何かを焼く匂いが漂っていた。
「座っていろ」
彼は私をソファに放置し、キッチンへと戻っていった。
私は遠慮なく座り込み、テーブルの上に置いてあった新聞を手に取った。
一面には、昨日の工場の件は載っていない。
代わりに、外交官たちの写真と『捕虜交換、平和裏に終了』という見出しが踊っていた。
キッチンから、卵を割る音がした。
カッカッ、という軽快なリズム。
続いて、ボウルの中で液体を撹拌する音。
「手伝おうか?」
私は新聞越しに声をかけた。
「座っていろ。お前が手伝うと、殻が入るか、皿が割れるかだ」
冷たい返事が返ってくる。
ジュウ、とバターが溶ける音がした。
香ばしい匂いが部屋に広がる。
私は新聞を置き、鼻をひくつかせた。
軍の食堂のマーガリンとは違う、本物の乳脂肪の香りだ。
数分後、レオニスが皿を二つ持って戻ってきた。
黄色い半月型の物体が乗っている。
オムレツだ。
焦げ目はなく、表面は滑らかで艶がある。付け合わせは焼いたトマトとベーコン。
「……意外」
私はフォークを受け取った。
「料理なんてするのね」
「独身生活が長いと、生きるための技術は身につく。レーション(野戦糧食)ばかりでは味覚が死ぬからな」
彼は向かいのソファに座り、自分の分のオムレツにナイフを入れた。
私も真似をしてナイフを入れる。
半熟の中身がとろりと流れ出した。
口に運ぶ。
ふわふわとした食感。
だが、味は……。
「……薄い」
私は正直に感想を述べた。
「塩、入れ忘れてない?」
「素材の味だ。塩分過多は体に毒だ」
レオニスは表情を変えずに食べ続けている。
私はテーブルの上の塩瓶を手に取り、たっぷりと振りかけた。
「毒でもいいわ。味がないと食べた気がしない」
もう一口食べる。
塩気が卵の甘みを引き立て、ようやく「料理」の味になった。
部屋の隅にあるラジオが、低いノイズ混じりの音声を流し始めた。
定時のニュース番組だ。
『――続いて国内のニュースです。昨日、東区画の工場地帯において、一部の軍部隊による強制捜査が行われました』
アナウンサーの声は硬かった。
『この作戦は、事前の通告なしに行われたものであり、民間企業の活動を不当に阻害したとの批判が上がっています。一部議員からは、軍の権限乱用を懸念する声も……』
フォークが皿に当たる音が、カチンと響いた。
レオニスの手が止まっている。
「……聞こえてる?」
私はオムレツを飲み込みながら聞いた。
「ああ」
彼は短く答え、食事を再開した。
「予想通りだ。工場長は『蛇』との繋がりを隠すために、被害者面をして議会に泣きついたんだろう」
「私たちが助けた子供たちのことは?」
「報道管制が敷かれている。都合の悪い事実は伏せるのが奴らのやり方だ」
ラジオは次のニュースに移っていた。
社交界のトレンド、新しいオペラの演目について。
平和な話題だ。
だが、その裏側で、工場の地下で起きていたことは、なかったことにされようとしている。
「……ねえ、ボス」
「なんだ」
「このオムレツ、やっぱり美味しいわ」
私は最後のひとかけらを口に入れた。
「明日も食べに来ていい?」
レオニスは空になった皿をテーブルに置き、ナプキンで口を拭った。
「明日は仕事だ。食堂が開いている」
「ちぇっ」
彼は立ち上がり、皿を片付け始めた。
その背中は普段よりも小さく見えた。
軍服という鎧を脱いだ彼は、ただの疲れた青年にすぎないのかもしれない。
「コーヒーを淹れる。砂糖はいくつだ」
キッチンから声がした。
「山盛り三杯」
「糖尿病になるぞ」




