第32話 錆びた蝶番と紙コップのスープ
階段を降りる足音が、鉄板の上でカンカンと高く響いた。
私は手すりを握らず、包帯を巻かれた右手を庇うようにして降りた。
左手には、工場長から奪った鍵束が握られている。
重い。
物理的な重量だけではない。真鍮の鍵一つ一つに染み付いた、何百回という開閉の記憶が、指先を通して流れ込んでくる。
――出さない。
――閉じ込める。
――管理する。
鍵の持ち主だった男の、粘着質な執着が残響となってまだこびりついている。
私は顔をしかめ、工場の床に降り立った。
目の前には、巨大な鉄の檻が並んでいる。
中には、ボロ布を纏った子供たちが、互いに身を寄せ合ってうずくまっていた。
彼らは私たちを見ても、助けが来たとは認識していないようだった。
ただ、新しい管理者が来たのだと思い、怯えた視線を向けてくる。
「……開けろ」
レオニスが背後で短く言った。
彼は銃を収め、周囲を警戒しながら立っている。
私は一番手前の檻に近づいた。
南京錠が掛かっている。
鍵束の中から、形の合うものを探す。
これだ。
鍵穴に差し込む。
抵抗がある。錆びついているのか、それとも脂で汚れているのか。
左手に力を込めて回す。
ガチン。
硬い音がして、ロックが外れた。
私は南京錠を引き抜き、床に落とした。
そして、重い鉄格子の扉を引く。
キィィィィ――。
油切れの蝶番が、断末魔のような音を立てた。
「出ていいわよ」
私は扉を開け放ち、脇に退いた。
「残業時間は終わり。家に帰る時間よ」
子供たちは動かない。
一番前にいた少年が、恐る恐る顔を上げ、私と、その背後のレオニスを見た。
彼の目には、まだ状況が理解できていない困惑の色がある。
レオニスが一歩前に出た。
彼は威圧感を与えないように、ゆっくりと片膝をついて視線の高さを合わせた。
「工場長は縛り上げた。警備兵も無力化した」
彼の声は、指令を出す時の冷徹なものではなく、事実だけを伝える静かなトーンだった。
「ここはもう閉鎖だ。外に車を用意させる。立てるか」
少年が立ち上がろうとし、よろめいた。
隣にいた少女が彼を支える。
その動きが波及し、奥にいた子供たちも次々と立ち上がり始めた。
私の耳に、変化した音が届く。
今まで彼らを支配していた「恐怖」のノイズが薄れ、代わりに「生存」の鼓動が強くなっていく音。
心臓が脈打ち、血液が循環し、肺が工場の煤けた空気ではない、外の空気を求めて動き出す音。
「……うるさくなってきた」
私は耳をほじった。
「生きる気力が戻ると、途端に騒がしくなるわね」
*
工場の搬入口が開け放たれ、外の光と風が流れ込んできた。
救護トラックが数台、バックで入ってくる。
荷台から飛び降りてきたのは、リサと数人の衛生兵だった。
「遅いよ、将軍!」
リサは白衣の裾を翻し、駆け寄ってきた。
「三十分も前に突入しただろう? 中で全滅してるんじゃないかと肝を冷やしたよ」
「ゴミ掃除に手間取った」
レオニスは檻から出てきた子供たちを顎で示した。
「全員、栄養失調と脱水症状だ。薬漬けにされている可能性もある。搬送を頼む」
「言われなくてもやるさ」
リサは子供たちの元へ走り、手際よく指示を出し始めた。
「重症者はストレッチャーへ! 歩ける子は青いテントへ誘導して! まずは水を飲ませろ、固形物はまだだ!」
衛生兵たちが動き回る。
子供たちがトラックに乗せられていく。
その光景を、私は少し離れたドラム缶にもたれて眺めていた。
どっと疲れが出た。
緊張が解けたせいか、包帯を巻いた右手がズキズキと痛む。
足も棒のようだ。泥と汚水で重くなったスーツが、鉛のように体にのしかかっている。
「……飲むか」
目の前に、湯気の立つ紙コップが差し出された。
レオニスだ。
彼はいつの間にか救護班からスープを調達してきたらしい。
「ありがとう。中身は?」
「野菜スープだ。具は溶けてなくなっているが」
私は左手でコップを受け取った。
温かい。
紙の薄い壁を通して、熱が指先に伝わってくる。
一口飲む。
塩気と、野菜の甘み。
高級な味ではない。インスタントの粉末を湯で溶いたような味だが、今の私にはどんな料理よりも染みた。
「……生き返る」
私は息を吐いた。
「で、あの工場長はどうしたの?」
「憲兵隊に引き渡した。横領、拉致監禁、違法薬物製造。余罪を合わせれば、終身刑でも足りないだろう」
レオニスは自分の分のコーヒーを啜った。
「だが、『蛇』との繋がりについては口を割るかどうか」
「割らせるわよ」
私はスープを飲み干し、コップを握り潰した。
「あいつの心の声はペラペラ喋ってたもの。『金庫の裏帳簿を見られたら終わりだ』って」
レオニスが眉を上げた。
「裏帳簿か。場所は」
「管理室の床下。金庫の下に隠しスペースがある」
「……なるほど。追加の捜査が必要だな」
彼は空になった私のコップを取り上げ、近くのゴミ袋へ投げ入れた。
「帰るぞ。報告書の山が待っている」
「えー、まだ働くの? 今日はもう定時過ぎてるわよ」
「特別手当が出る。それに、リサにお前の手の傷を見せなきゃならん」
リサが遠くから手を振っているのが見えた。
子供たち全員の搬送が終わったらしい。
彼女はタバコを吹かしながら、何かを叫んでいるが、工場の換気扇の音でよく聞こえない。
私たちは出口へ向かった。
外は雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。
濡れた地面がオレンジ色に反射し、工場の無機質な壁を染めていた。
ジープに乗り込む。
シートに背中を預けると、ポケットの中で飴の缶がカチャリと鳴った。
「ねえ、ボス」
「なんだ」
「帰りに市場に寄って」
「何を買うつもりだ」
「ジャム。瓶ごと失くしちゃったから、補充しないと」
レオニスはエンジンをかけながら、小さく鼻を鳴らした。
「請求書を回せ。承認してやる」
車が動き出す。
背後の工場が、夕闇の中に沈んでいく。
私の耳には、もう悲鳴は聞こえない。
ただ、タイヤが濡れた路面を走る規則的な音と、隣に座る男の静かな呼吸音だけが、心地よく響いていた。




