第31話 沈黙の起爆装置とガラス越しの暴力
頭上の鉄網越しに、鈍い音が響いてきた。
何か重い袋を床に叩きつけたような、湿った音だ。
続いて、ガラスが割れる高い音。
怒号はない。
一方的な破壊の音だけが、蒸気の噴出音に混じって降り注いでくる。
「……始まった」
私は膝を抱えたまま、頭上を見上げた。
天井の隙間から漏れる光が、点滅している。誰かが光源の前を横切っているのだ。
私は目の前の木箱――先ほど回線を切ったばかりの起爆装置――を爪で弾いた。
コツ、という軽い音がする。
中身は沈黙したままだ。あの焦燥感に満ちた「爆発したい」という意志は、もうどこにもない。
「よかったわね。人殺しにならなくて済んで」
私は木箱に話しかけた。返事はない。ただの木と火薬の塊だ。
上で、ドスンという一際大きな音がした。
それきり、物音が止む。
「……呼ぶって言ったけど」
私は立ち上がり、泥で汚れたスカートの裾を払った。
「終わったなら迎えに来てくれてもいいじゃない。気が利かないボスね」
私は待つのをやめた。
この蒸し暑い地下でじっとしているのは性分に合わない。それに、もしレオニスが撃たれて動けなくなっているなら、誰かが引きずり出してやらなければならない。
私はメンテナンス用の垂直梯子に手を掛けた。
鉄の棒は熱を帯びていて、包帯を巻いた掌に鈍い痛みを走らせる。
一段ずつ登る。
熱気が層になって顔にまとわりつく。
上層の床板を押し上げ、顔を出す。
工場の騒音は相変わらずだった。
ボイラーは唸り、歯車は回り続け、赤い液体を吸い上げるポンプは脈動している。
ただ、作業員たちの姿が消えていた。
異変を察知して逃げ出したのか、あるいは別の場所に隠れたのか。
私は中二階の通路へと続く階段を登った。
手すりに手が触れる。
そこには、真新しい汗の跡が残っていた。
――逃げろ。
――バケモノだ。
――目が合っただけで動けない。
逃げた作業員たちの残響だ。恐怖で足がもつれた記憶が、鉄板の上にへばりついている。
彼らはレオニスを見て逃げ出したらしい。
管理室の前まで来た。
ガラス張りの壁の一部が粉々に砕け散り、床にキラキラと破片が散らばっている。
ドアは蝶番から外れ、斜めに傾いていた。
私は割れたガラスの隙間から中を覗いた。
室内は荒れていた。
計器類から火花が散り、書類が散乱している。
床には数人の男たちが転がっていた。白衣を着た技術者と、警備の兵士たちだ。
ピクリとも動かないが、胸は上下している。意識を刈り取られただけらしい。
部屋の中央に、レオニスが立っていた。
彼は拳銃を構えてはいなかった。
ただ、右手の革手袋をきつく締め直しているところだった。
その足元に、あの小太りの工場長が這いつくばっていた。
彼は血まみれの口元を手で押さえ、必死に後ずさろうとしている。
反対の手には、小さな黒い送信機が握りしめられていた。
「お、押すぞ……!」
工場長が叫んだ。声が震えて裏返っている。
「本当に押すぞ! ここが吹き飛べば、お前も道連れだ!」
レオニスは歩みを止めなかった。
彼は瓦礫を踏み越え、ゆっくりと工場長に近づいていく。
「やめろ! 来るな!」
工場長が親指に力を込めた。
カチッ。
スイッチが押し込まれる乾いた音が、室内に響いた。
何も起きない。
爆発音も、衝撃も、天井が崩れ落ちる轟音もない。
ただ、壊れた蛍光灯がジジジと鳴っているだけだ。
「……な、なぜだ?」
工場長は送信機を振った。
もう一度押す。カチッ。カチッ。
「故障か? 電池か? そんな馬鹿な、今朝点検したばかりだぞ!」
私の耳が、送信機の嘆きを拾った。
――送った。電波は飛んだ。
――でも、受け取り手がいない。
――無視された。
「受信拒否よ」
私は割れたガラスの枠を跨いで、部屋に入った。
ガラス片が靴底でジャリと鳴る。
工場長が弾かれたように私を見た。
「お、お前は……あの時の子供……!」
「残念だったわね」
私はポケットから、先ほど切断した黄色いコードの切れ端を取り出し、床に放った。
「あなたの爆弾、電話線を切っておいたから。いくらコールしても繋がらないわよ」
工場長の顔から表情が消えた。
彼は手の中の送信機を見つめ、それからレオニスを見上げた。
自分が切り札を失ったことを理解した瞬間、彼の目から理性が抜け落ち、純粋な恐怖だけが残った。
「た、助けてくれ! 金ならある! 金庫の中身を全部やる! 隠し口座の番号も教える!」
彼は床に額を擦り付けんばかりに懇願した。
「私はただの管理職だ! 『蛇』に命令されただけなんだ! 逆らえば殺されると言われて……」
レオニスは無言で工場長の胸倉を掴み、引き上げた。
小太りの体が、軽々と宙に浮く。
「喋るな」
レオニスが低く告げた。
「お前の言い訳を聞くために来たんじゃない。鍵だ」
「か、鍵?」
「檻の鍵だ。出せ」
「も、持ってます! ポケットに……」
工場長が震える手でズボンのポケットを探る。
ジャラリ、という音がして、鍵束が取り出された。
レオニスはそれを引ったくると、工場長をゴミのように床へ投げ捨てた。
男は机の角に背中を打ち付け、短い悲鳴を上げてうずくまった。
「拘束しろ」
レオニスが私に言った。
「何か縛るものはあるか」
私は周囲を見回した。
床に転がっていた警備兵のベルトが目に入った。
「これでいい?」
「十分だ。手足を縛って転がしておけ。後で憲兵が回収に来る」
レオニスは鍵束を私に投げた。
空中でキャッチする。
冷たい金属の塊。
そこからは、まだ子供たちの恐怖の記憶がへばりついていたが、それは過去のものになりつつあった。
「行くぞ、レティ。解放の時間だ」
レオニスは部屋の奥、工場フロアを見下ろす窓際に立った。
その視線の先には、鉄の檻が並んでいる。
私はベルトを拾い上げ、震える工場長に近づいた。
「手を出して。きつく縛るけど、文句は言わないでね」
「ひっ……!」
男は抵抗しなかった。
私は慣れない手つきで男の手首を縛り上げながら、ふと窓の外を見た。
工場の窓ガラス越しに、空が見える。
雨雲が切れ、薄い光が差し込み始めていた。
耳を澄ます。
檻の中の子供たちの声。
まだ恐怖に支配されているが、その鼓動のリズムに、微かな変化が生まれていた。
彼らも気づいたのだ。
監視者たちの気配が消え、別の足音が近づいてきていることに。




