第30話 ハッカの味
私がしゃがみ込むと同時に、レオニスの手が伸びてきた。
彼は私の襟首を掴むのではなく、背中に手を回して支えた。
そのまま太いパイプの陰へと誘導される。
蒸気が噴き出すシューという音が、私たちの気配をカーテンのように隠してくれた。
「……立てるか」
レオニスが耳元で囁く。
彼の視線は、まだ中二階の管理室に向けられている。ガラスの向こうで、あの小太りの男――工場長が、部下になにか指示を飛ばしながら歩き回っていた。
「立てるわ。ただ、少し酔っただけ」
私はポケットから飴の缶を取り出そうとした。
だが、包帯を巻かれた右手は思うように動かない。左手だけで蓋を回そうとするが、金属の缶は汗と脂で滑った。
カチャカチャと、中身が虚しく鳴るだけだ。
レオニスが缶を私の手から取り上げた。
彼は視線を管理室から外さずに、片手で器用に蓋をひねった。
パカッ、という乾いた音がして、甘い匂いが漂う。
「口を開けろ」
言われるがままに口を開く。
白い粒が放り込まれた。
ハッカだ。
強烈な清涼感が鼻に抜け、工場の油臭さと血の匂いを一時的に麻痺させる。
「……ありがとう。でも次はイチゴにして」
「贅沢を言うな。刺激があるほうが目が覚める」
レオニスは缶を私のポケットに戻し、再び管理室を見た。
「状況を整理するぞ。標的はあの男だ。だが、懐に自爆スイッチがある」
「ええ。無線式よ。あいつのポケットの中から、『電波を飛ばしたい』っていう送信機の欲求が聞こえる」
レオニスは顎を摩った。
「ここから眉間を撃ち抜くことは可能だ。だが、筋肉の痙攣や、倒れた拍子にスイッチが押されるリスクがある」
「この工場が吹き飛べば、檻の中の子供たちは全滅ね」
「ああ。だから、受信側を潰す」
彼は視線を下に向けた。
鉄網の床の下。
巨大なタンクと、複雑に絡み合う配管の森。
「送信機があるなら、受信機と爆薬がセットされた場所があるはずだ。工場の構造上、最も効率よく全体を破壊できるポイントに」
「ボイラー室?」
「あるいは、このメインタンクの基部だ」
レオニスは身を屈め、鉄網の隙間から下を覗き込んだ。
「レティ、聞こえるか。爆薬の声だ」
私はハッカ飴を右の頬に寄せ、目を閉じた。
子供たちの悲鳴をフィルターで遮断する。
機械の駆動音のさらに奥。
静かに、しかし確実に殺意を溜め込んでいる「物」の音を探す。
――待機中。
――信号待ち。
――火花を散らす準備はできている。
「……下よ」
私は目を開け、足元を指差した。
「真下。一番太い赤いパイプが交差しているところ。そこに『待ちくたびれた』って言ってる箱がある」
「行くぞ」
レオニスは音もなく移動を開始した。
私たちは階段を使わず、メンテナンス用の垂直梯子を使って下層へ降りた。
*
下層は、上層よりもさらに環境が悪かった。
熱気が天井付近に溜まり、サウナのような暑さだ。
床は油と結露した水で滑りやすくなっている。
私たちは配管の下をくぐり、タンクの土台へと近づいた。
赤いパイプが複雑に絡み合う中心部に、それはあった。
無骨な木箱が、太い結束バンドでパイプに固定されている。
箱からは数本のコードが伸び、パイプの継ぎ目と、小さな金属製のボックスに繋がっていた。
「受信機付きの起爆装置か」
レオニスが懐中電灯を点けずに、ボイラーの火明かりだけで確認する。
「単純だが確実な仕掛けだ。パイプを破壊して、高圧の蒸気と燃料を引火させる気だな」
彼は腰のポーチから、ペンチのような工具を取り出した。
「解除する。どれを切ればいい」
私は木箱に耳を寄せた。
箱の中には、ダイナマイトらしき棒状のものが詰まっている気配がする。
そして、金属製のボックスからは、微弱な電気の音が聞こえていた。
――繋がっている。
――赤い線は電源。
――黄色い線は信号。
――青い線は……罠だ。切れば弾ける。
「……意地が悪いわね」
私は顔をしかめた。
「青い線はダミーよ。切った瞬間に起爆する回路になってる。『触るな』って脅してるわ」
「本命は」
「黄色。信号を受け取る線を切れば、ただの箱になる」
レオニスは頷き、工具の先を黄色い被覆のコードに当てた。
躊躇いはない。
私の耳を完全に信用している動作だ。
パチン。
乾いた音がして、コードが切断された。
――……信号途絶。
――眠い。
――役目は終わりか。
箱の中から聞こえていた緊張感が、急速に萎んでいくのがわかった。
ただの物言わぬガラクタに戻ったのだ。
「解除完了だ」
レオニスは工具をしまい、立ち上がった。
彼は天井を見上げた。鉄網の向こうに、管理室の明かりが見える。
「これで人質は子供たちだけになった」
「『だけ』って言うけど、檻の鍵はどうするの?」
「鍵は工場長が持っているだろう。奪えばいい」
彼はシャツの襟を正し、泥で汚れた袖を払った。
「ここからは強行突破だ。俺が正面から出る。お前はここに隠れていろ」
「また私だけ留守番?」
「お前が流れ弾に当たったら、誰が子供たちの声を聞くんだ。終わったら呼ぶ」
彼は言い返す隙を与えず、梯子の方へ歩き出した。
その背中から、冷徹な「仕事モード」の気配が立ち上っている。
あの工場長にとっての悪夢が、今から階段を登っていくのだ。
私はその場に座り込み、タンクの冷たい表面に背中を預けた。
口の中のハッカ飴はもう溶けてなくなっていた。
代わりに、少しだけ鉄の味がする。
口の中を切ったわけではない。
頭上の管理室から漏れてくる、あの男の強欲な思考の味が、苦いのだ。
――あと少し。
――次の便で高飛びだ。
――子供なんて、また産めばいい。
「……最低」
私は膝を抱えた。
レオニス、頼んだわよ。
あいつの思考回路ごと、物理的に叩き潰してやって。
私は包帯の巻かれた手を強く握りしめ、頭上の銃声を待った。




