表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/29

第3話 温かいスープ

 天幕テントの中は、予想外に快適だった。

 外の冷たい霧とは違う、乾いた暖かさが全身を包む。中央で赤々と燃えるストーブが、薬缶やかんの脇から白い湯気を立ち上らせていた。

 私は入り口近くの椅子に座り、両手でマグカップを温めている。中身は、具のない、けれど塩加減が絶妙なコンソメスープだ。

 一口飲むごとに、乾ききっていた喉が潤い、冷え切っていた指先までじんわりと熱が伝わってくる。


 「熱いから気をつけて」

 レオニスが書類から目を離さずに言った。

 私は彼の忠告を右から左へ受け流し、スープを飲み干した。空になったカップを置くと、腹の底から力が湧いてくるような気がした。


 「これで、ようやくまともな人間らしい活動ができるわ」

 「まずは報告書を読め」

 彼はそう言いながら、一枚の紙を私の前に滑らせた。


 そこには、複雑な記号と数字の羅列。そして、「石膏せっこう」、「殺鼠剤さっそざい」といった文字が並んでいた。

 「これは?」

 「食糧の隠匿だ。一部の補給物資に、人体に有害なものが混ぜられていた。お前の耳がそれを嗅ぎつけた。それが事実なら、お前には価値がある」


 彼は私の反応を待たず、言葉を続けた。

 「戦後処理局の調査員として、お前を雇用する。仕事の内容は、俺の指示に従い、隠された『問題』を耳で探してもらうことだ。報酬は、衣食住と、一定の身分保証。それと、子供らしい無邪気さを失わないための、ささやかな安全」


 「ささやかな安全? ずいぶん条件が渋いわね」

 私はマグカップを指で弄びながら言った。

 「それに、この外套コートは?」

 私は肩にかけた、少し大きめの外套を指差した。

 「これ、気に入ってるの。サイズは合ってないけど、あったかいし」


 レオニスは一瞬、眉をひそめた。

 「……支給品が用意されるまでの限定だ。だが、手入れはしっかりしろ。泥をつけたままだと、次の仕事で使えなくなる」


 彼は立ち上がり、壁にかかった将校用コートを羽織った。

 「行くぞ。最初の『現場』だ」


 「もう? デザートは?」

 「移動中に乾パンくらいはやる」


 *


 ジープの後部座席は、予想通り硬かった。

 だが、スープのおかげで、先ほどのような凍死寸前の絶望感は薄れている。

 私は隣に座った兵士と適度な距離を保ち、窓の外を眺めていた。

 街並みは、ところどころ焼け跡が残っているものの、思ったよりは整然としている。

 人々は皆、質素な身なりだが、貧しさの中にもどこか規律のようなものを感じさせる。


 「あの、さっきのは何だったの?」

 私は隣の兵士に尋ねた。

 「軍の備蓄に、有害物質が混入していた件」

 「うん。でも、あなたが『子供がいる』って言った時、急に止まろうとしたじゃない? あの時、レオニス閣下は『無視しろ』って言ったわよね」


 兵士は少し迷った顔をしたが、やがて口を開いた。

 「あの時、閣下は『任務完了が最優先』だと仰せでした。子供一人を救うために、数百人の配給が遅れるわけにはいかない、と」

 「でも、子供は助かったんでしょう?」

 「……はい。後続の部隊が、指示通りに救助に向かいました。幸い、子供は無事だったと聞いています」


 兵士はそう言って、安心したように息を吐いた。

 私はレオニスの後ろ姿を窓越しに見た。

 彼の顔には、冷徹さの中に、どこか「決断」の証のようなものが刻まれているように見えた。

 

 「……それで、私たちはどこへ?」

 「居住区の、教会広場へ」

 「教会?」

 「そこの教会が、一時的な救護所になっている。衛生兵が足りていない。閣下は、そこへ人員を配置しに行く」


 「人員って、私?」

 「閣下から、『選別ができる人間を一人』と指示がありました」


 *


 ジープが教会広場に到着すると、そこは活気に満ちていた。

 いや、「活気」というよりは「切迫感」だろうか。

 人々は皆、険しい顔で、しかしどこか懸命に動いている。

 焼けた教会の前に、臨時の救護所が設けられていた。

 担架には包帯を巻かれた人々が横たわり、衛生兵たちが忙しく立ち働いている。


 「閣下、到着です」

 レオニスがジープを降りると、白衣を着た男が駆け寄ってきた。

 「お待たせしました! 人手が足りなくて……」


 「状況は?」

 「負傷者が多い。だが、それ以上に、病気だ。熱が出ている者が続出している」

 医務官は、私のほうをちらりと見た。

 「そちらの方は?」


 「調査員だ。だが、今は衛生兵の補助をしてもらおう」

 レオニスは私を促した。

 「まずは、ここで『選別』をしてもらう」


 「選別?」

 「ああ。誰に手当てを優先すべきか、誰はもう手遅れか。お前の耳で、それを判断してくれ」

 彼は私の耳元で、冷ややかに言った。

 「俺は、無駄な仕事は好かんのだ」


 私は頷いた。

 ここもまた、音で満ちていた。

 生者の呻き声、死者の微かな囁き。

 そして、熱に浮かされた者の、意味不明な言葉。


 「……わかったわ」

 私は決意を固めた。

 「でも、一つだけ条件がある」

 「なんだ」

 「あとで、温かいスープをもう一杯くれること」


 レオニスは、一瞬だけ怪訝な顔をした。

 それから、短く答える。

 「成果次第だ」


 私は静かに微笑んだ。

 「期待してて」


 そう言って、私は担架が並ぶ一角へと歩き出した。

 私の「仕事」が始まる。

 まずは、この音の洪水の中から、確かな「声」を見つけ出すところからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ