第3話 温かいスープ
天幕の中は、予想外に快適だった。
外の冷たい霧とは違う、乾いた暖かさが全身を包む。中央で赤々と燃えるストーブが、薬缶の脇から白い湯気を立ち上らせていた。
私は入り口近くの椅子に座り、両手でマグカップを温めている。中身は、具のない、けれど塩加減が絶妙なコンソメスープだ。
一口飲むごとに、乾ききっていた喉が潤い、冷え切っていた指先までじんわりと熱が伝わってくる。
「熱いから気をつけて」
レオニスが書類から目を離さずに言った。
私は彼の忠告を右から左へ受け流し、スープを飲み干した。空になったカップを置くと、腹の底から力が湧いてくるような気がした。
「これで、ようやくまともな人間らしい活動ができるわ」
「まずは報告書を読め」
彼はそう言いながら、一枚の紙を私の前に滑らせた。
そこには、複雑な記号と数字の羅列。そして、「石膏」、「殺鼠剤」といった文字が並んでいた。
「これは?」
「食糧の隠匿だ。一部の補給物資に、人体に有害なものが混ぜられていた。お前の耳がそれを嗅ぎつけた。それが事実なら、お前には価値がある」
彼は私の反応を待たず、言葉を続けた。
「戦後処理局の調査員として、お前を雇用する。仕事の内容は、俺の指示に従い、隠された『問題』を耳で探してもらうことだ。報酬は、衣食住と、一定の身分保証。それと、子供らしい無邪気さを失わないための、ささやかな安全」
「ささやかな安全? ずいぶん条件が渋いわね」
私はマグカップを指で弄びながら言った。
「それに、この外套は?」
私は肩にかけた、少し大きめの外套を指差した。
「これ、気に入ってるの。サイズは合ってないけど、あったかいし」
レオニスは一瞬、眉をひそめた。
「……支給品が用意されるまでの限定だ。だが、手入れはしっかりしろ。泥をつけたままだと、次の仕事で使えなくなる」
彼は立ち上がり、壁にかかった将校用コートを羽織った。
「行くぞ。最初の『現場』だ」
「もう? デザートは?」
「移動中に乾パンくらいはやる」
*
ジープの後部座席は、予想通り硬かった。
だが、スープのおかげで、先ほどのような凍死寸前の絶望感は薄れている。
私は隣に座った兵士と適度な距離を保ち、窓の外を眺めていた。
街並みは、ところどころ焼け跡が残っているものの、思ったよりは整然としている。
人々は皆、質素な身なりだが、貧しさの中にもどこか規律のようなものを感じさせる。
「あの、さっきのは何だったの?」
私は隣の兵士に尋ねた。
「軍の備蓄に、有害物質が混入していた件」
「うん。でも、あなたが『子供がいる』って言った時、急に止まろうとしたじゃない? あの時、レオニス閣下は『無視しろ』って言ったわよね」
兵士は少し迷った顔をしたが、やがて口を開いた。
「あの時、閣下は『任務完了が最優先』だと仰せでした。子供一人を救うために、数百人の配給が遅れるわけにはいかない、と」
「でも、子供は助かったんでしょう?」
「……はい。後続の部隊が、指示通りに救助に向かいました。幸い、子供は無事だったと聞いています」
兵士はそう言って、安心したように息を吐いた。
私はレオニスの後ろ姿を窓越しに見た。
彼の顔には、冷徹さの中に、どこか「決断」の証のようなものが刻まれているように見えた。
「……それで、私たちはどこへ?」
「居住区の、教会広場へ」
「教会?」
「そこの教会が、一時的な救護所になっている。衛生兵が足りていない。閣下は、そこへ人員を配置しに行く」
「人員って、私?」
「閣下から、『選別ができる人間を一人』と指示がありました」
*
ジープが教会広場に到着すると、そこは活気に満ちていた。
いや、「活気」というよりは「切迫感」だろうか。
人々は皆、険しい顔で、しかしどこか懸命に動いている。
焼けた教会の前に、臨時の救護所が設けられていた。
担架には包帯を巻かれた人々が横たわり、衛生兵たちが忙しく立ち働いている。
「閣下、到着です」
レオニスがジープを降りると、白衣を着た男が駆け寄ってきた。
「お待たせしました! 人手が足りなくて……」
「状況は?」
「負傷者が多い。だが、それ以上に、病気だ。熱が出ている者が続出している」
医務官は、私のほうをちらりと見た。
「そちらの方は?」
「調査員だ。だが、今は衛生兵の補助をしてもらおう」
レオニスは私を促した。
「まずは、ここで『選別』をしてもらう」
「選別?」
「ああ。誰に手当てを優先すべきか、誰はもう手遅れか。お前の耳で、それを判断してくれ」
彼は私の耳元で、冷ややかに言った。
「俺は、無駄な仕事は好かんのだ」
私は頷いた。
ここもまた、音で満ちていた。
生者の呻き声、死者の微かな囁き。
そして、熱に浮かされた者の、意味不明な言葉。
「……わかったわ」
私は決意を固めた。
「でも、一つだけ条件がある」
「なんだ」
「あとで、温かいスープをもう一杯くれること」
レオニスは、一瞬だけ怪訝な顔をした。
それから、短く答える。
「成果次第だ」
私は静かに微笑んだ。
「期待してて」
そう言って、私は担架が並ぶ一角へと歩き出した。
私の「仕事」が始まる。
まずは、この音の洪水の中から、確かな「声」を見つけ出すところからだ。




