第29話 甘くない排水
円筒形の空間は、世界で一番居心地の悪い場所だった。
コンクリートの壁面は湿った苔でヌルヌルと滑り、底には踝まで浸かるほどの排水が流れている。
水は赤茶色に濁り、鉄錆と、生温かい有機物の腐敗臭を放っていた。
「……最悪」
私は前のめりに屈み、四つん這いで進みながら呻いた。
借り物のスーツの膝はすでに泥水を吸って重くなり、皮膚に張り付いている。
「ねえ、将軍。このスーツ、外交官に返す時なんて言えばいいの? 『ドブネズミのコスプレに使いました』って?」
「『極秘任務で名誉の負傷を遂げた』と言っておけ」
前を行くレオニスの声が、パイプの中で反響した。
彼は懐中電灯を使わず、排水の微かな反射だけを頼りに進んでいる。
軍服も泥だらけのはずだが、その背中は相変わらず揺らぐことがない。
「名誉ね。臭い名誉だこと」
私は手を突くたびに跳ねる泥水を避けるように顔を背けた。
ポケットの中の飴の缶が、唯一の清浄な聖域だ。
だが、この汚れた手では蓋を開けることすらできない。
進むにつれて、パイプの振動が強くなってきた。
ゴゴゴゴ、という重低音が、コンクリートを通して直接骨に伝わってくる。
工場の稼働音だ。
だが、私の耳にはそれ以上のものが届いていた。
――痛い。
――やめて。
――お母さん。
「……っ」
私は立ち止まり、泥水に浸かった手で耳を塞ごうとした。
無駄だった。
声は空気の振動ではなく、脳への直接干渉だ。
パイプという閉鎖空間が、アンテナの役割を果たしてしまっている。
数百人の子供たちの悲鳴が、増幅されて頭蓋骨の中で跳ね回る。
「レティ」
レオニスが振り返った。
暗闇の中で、彼の瞳だけが微かに光って見える。
「どうした」
「うるさいのよ」
私は吐き気をこらえた。
「反響してる。ここ、ただの排水管じゃないわ。地上の『叫び声』を地下に流すスピーカーになってる」
「出口はすぐだ。耐えろ」
レオニスは歩調を早めた。
「自分の足で歩けるか」
「這ってでも行くわよ。ここに置いていかれるよりマシだわ」
私たちはさらに奥へと進んだ。
やがて、頭上に鉄格子状の蓋が見えてきた。
隙間から白い蒸気が吹き込み、赤い光が差し込んでいる。
機械油の焦げた匂いが、排水の臭いと混ざり合った。
レオニスが梯子を登り、鉄格子を押し上げた。
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、蓋が開く。
彼は音もなく這い出し、周囲を確認してから私に手を差し伸べた。
その手掴まり、引き上げられる。
地上――いや、工場の地下フロアに出た瞬間、音の暴力が私を殴りつけた。
*
そこは、巨大なボイラー室のようだった。
太い配管が血管のように壁を這い、継ぎ目からシューシューと蒸気を噴き出している。
床は鉄網で、その下には赤黒い水が流れる水路が見えた。
私たちが這い出してきたのは、その水路の点検口だったらしい。
「隠れろ」
レオニスが私の頭を押さえ、巨大なタンクの陰に引きずり込んだ。
すぐ近くを、ゴム長靴を履いた作業員が通り過ぎていく。
彼は手押し車を押していた。
車の上には、麻袋が積まれている。
袋の中身が何か、私にはわかってしまった。
微かだが、袋から「諦め」の思考が漏れている。
――終わった。
――やっと楽になれる。
死体だ。
おそらく、薬の材料として使い潰された子供の成れの果て。
作業員はボイラーの投入口の前で止まり、無造作に袋を放り込んだ。
重い音がして、蓋が閉められる。
「……効率が落ちてるな」
作業員が同僚に話しかける声が聞こえた。
「最近のガキは弱い。すぐに壊れる」
「餌を減らしてるからだろう。上の指示だ。コスト削減だとさ」
「ケチ臭い話だ。血を抜くなら、もっと肉をつけてからにしろってんだ」
彼らはタバコに火をつけ、笑いながら去っていった。
ただの業務連絡。
家畜の世話についての愚痴と変わらないトーン。
私はタンクの冷たい表面に額を押し付けた。
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、必死で抑え込む。
今ここで叫べば、レオニスの足を引っ張るだけだ。
「……位置はわかるか」
レオニスが耳元で囁いた。
「生きている子供たちの場所だ」
私は深呼吸をし、轟音の中に意識を潜らせた。
ボイラーの燃焼音、蒸気の噴出音、歯車の回転音。
それらの奥にある、小さく、震える鼓動の群れ。
「上よ」
私は天井を指差した。
「この真上。中二階の通路の奥に、広い空間がある。そこに集められてる」
「数は」
「たくさん。数え切れない。みんな、鉄の檻に入れられてる」
レオニスは天井を見上げた。
鉄網の隙間から、上の階の明かりが見える。
「行くぞ。警備の配置を確認しながら進む」
私たちはタンクの陰から移動した。
鉄の階段を登り、中二階の通路に出る。
熱気が増した。
蒸気が視界を遮る中、私たちは壁に張り付いて進んだ。
通路の先に、ガラス張りの部屋が見えてきた。
管理室だろうか。
中には白衣を着た男たちが数人、計器類を操作している。
そして、その奥の広大なスペースに、それはあった。
鉄格子で作られた巨大な檻。
家畜用のケージを積み上げたような構造物の中に、ボロ布を纏った子供たちが詰め込まれている。
誰も泣いていない。
泣く気力すらないのだ。
彼らの腕にはチューブが繋がれ、そこから赤い液体がゆっくりと管を伝って、中央のタンクへと集められていく。
「……工場だな」
レオニスが低く呟いた。
彼の声には感情がなかった。だが、彼が握っている手すりの鉄パイプが、ミシミシと音を立てて歪んでいくのが見えた。
その時、管理室のドアが開いた。
中から一人の男が出てくる。
白衣の下に高級そうなスーツを着た、小太りの男。
「生産量を上げろと言ったはずだ!」
男が部下を怒鳴りつける。
「次の出荷までにタンクを満たせ! 材料ならいくらでも補充がきく。孤児院からでも、スラムからでも浚ってこい!」
私の耳が、男の声を拾った。
肉声ではない。彼の心の声だ。
――金だ。これで借金が返せる。
――『蛇』との契約は絶対だ。
――出世コースに戻れる。
「……見つけた」
私はレオニスの袖を引いた。
「あの男、知ってる。声に聞き覚えがあるわ」
レオニスが私を見る。
「誰だ」
「予算委員会の時、局長の後ろにいた書記官の一人よ」
私は男の脂ぎった顔を睨みつけた。
「管理局の人間が、工場の工場長をやってるみたい」
レオニスがホルスターの留め具を外した。
「なるほど。灯台下暗しとはこのことか」
「待って」
私は彼の腕を掴んだ。
「まだ撃たないで。あの男のポケット、変な音がする」
――押せば終わる。
――緊急停止じゃない。自爆装置だ。
――証拠は残さない。
「自爆スイッチを持ってる」
私の言葉に、レオニスの動きが止まった。
「あいつ、自分が捕まりそうになったら、この工場ごと子供たちを吹き飛ばすつもりよ」
工場の轟音が、さらに大きく響いた気がした。
熱気と騒音、そして子供たちの無言の悲鳴。
私は眩暈を感じて、その場にしゃがみ込んだ。
飴を舐める余裕など、どこにもなかった。




