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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第28話 壊れた鐘

 東区画へ向かう道は、舗装が剥がれかけていた。

 ジープのタイヤが窪みにはまるたび、車体が大きく揺れ、私のポケットの中で飴の缶がカチャカチャと音を立てる。

 窓の外の景色は、市場の極彩色の混沌から、モノクロームの荒廃へと塗り変わっていく。

 黒くすすけたレンガの壁。折れた煙突。そして、ガラスの割れた窓枠が、骸骨の眼窩のように並ぶ工場群。


 「空気が重いわ」

 私は窓を少し開けたが、すぐに入り込んできた硫黄の臭いに閉口して閉めた。

 「肺が汚れそう。労災認定してくれる?」

 「マスクを支給する予算はない。ハンカチで口を覆っておけ」

 レオニスは前方を睨んだまま、速度を落とした。

 

 道路の脇を流れる運河は、ドブ川のような色をしていた。

 油の膜が浮き、その上をアメンボではなく、発泡スチロールの破片が流れていく。

 人の気配はない。

 稼働している工場もあるはずだが、機械の駆動音だけが響き、作業員の姿は見えなかった。


 「……聞こえるか」

 レオニスがエンジンを切った。

 車は運河沿いの廃倉庫の裏に隠された。

 静寂が訪れる。いや、完全な静寂ではない。

 風の音に混じって、低く、不協和な金属音が響いてくる。


 ゴーン、ゴワン。


 「鐘の音ね」

 私は車を降り、音のする方角へ耳を向けた。

 「ひび割れてる。叩くたびに割れ目が広がって、悲鳴みたいな倍音が混じってるわ」

 

 「リサの言っていた廃教会だ」

 レオニスはトランクから双眼鏡を取り出し、首にかけた。

 「ここからは徒歩だ。足元に気をつけろ。古釘やガラス片が散らばっている」


 私たちは運河沿いの小道を進んだ。

 背の高い雑草が足に絡みつく。枯れた草は油を含んでいて、ズボンの裾に黒いシミを作った。

 私はレオニスの足跡を正確にトレースして歩いた。彼が踏んで安全だった場所なら、私も安全だ。


 十分ほど歩くと、瓦礫の山の向こうに尖塔が見えてきた。

 かつては立派な聖堂だったのだろう。だが今は屋根の半分が崩落し、焦げたはりが肋骨のように空へ突き出している。

 鐘楼だけが奇跡的に残っていたが、ピサの斜塔のように川の方へ傾いていた。

 風が吹くたび、吊るされた鐘が揺れ、あの不吉な音を奏でる。


 「止まれ」

 レオニスが手で制した。

 私たちは崩れた塀の陰に身を隠した。

 彼が双眼鏡を構える。


 「……見張りだ。正面の入り口に二人。鐘楼の上に一人」

 「武装は?」

 「小銃を持っている。軍の放出品だな」


 私は目を閉じた。

 視覚情報はいらない。

 鐘の音と、川の流れる音の隙間にある、微細な「気配」を探る。


 距離がある。まだ中の会話までは聞こえない。

 だが、建物全体が発している低周波のような振動がある。

 

 ――回せ。すり潰せ。

 ――蒸気を逃がすな。圧力を上げろ。


 「機械が動いてる」

 私は目を開けずに告げた。

 「地下ね。地面の下からボイラーの音がする。それと、何かを粉砕する音」


 「薬の製造ラインか」

 レオニスが双眼鏡を下ろした。

 「入り口は正面だけか?」


 私は意識を建物の裏手、運河の方へ飛ばした。

 水の音。

 排水パイプから流れ出る液体の音。


 ――赤い水。

 ――臭い。鉄の味がする。


 「裏に排水口があるわ。そこから赤い水が流れてる」

 私は眉をひそめた。

 「川の魚たちが嫌がってる。『血の味がする』って」


 レオニスの顔が硬くなった。

 「リサの分析通りか。血液製剤の材料……つまり、ドナーがいる」


 「ドナーだけじゃないわ」

 私はさらに深く、地下の音に集中した。

 機械音の奥にある、人間的なノイズ。


 ――帰りたい。

 ――母さん。

 ――痛いのは嫌だ。


 「子供の声がする」

 私が言うと、レオニスが私を見た。

 「死者の声か?」

 「いいえ、生きてる。怯えてるけど、心臓は動いてるわ。……たくさんいる。檻の中に詰め込まれてるみたい」


 レオニスは無言でホルスターの留め具を外した。

 「偵察の予定だったが、変更だ」

 「突入するの?」

 「子供がいるなら話は別だ。悠長に証拠固めをしている時間はない」


 彼は塀の陰から身を乗り出し、地形を確認した。

 「正面は警備が厚い。裏の排水口から入る」

 「泥水の中を這うのね。最悪」

 私はコートのボタンを留め直した。

 「クリーニング代、倍額請求するから」


 「承認する」

 レオニスは短く答え、猫のように音もなく瓦礫の上を移動し始めた。

 

 鐘がまた鳴った。

 ゴワン、という歪んだ音が、私たちの侵入を告げる合図のように響き渡った。

 私はポケットの中の飴の缶を押さえ、泥だらけの地面に手をついて彼を追った。

 甘い飴玉が、恐怖を紛らわせる唯一の味方だった。

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