第27話 裏路地の診療所
庁舎の裏口から出ると、地面の感触が変わった。
毛足の長い絨毯から、泥と瓦礫が混ざった不均一な土へ。
私は包帯を巻かれた右手をポケットに隠し、レオニスの背中を追った。
彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げている。将軍の階級章がついた上着は、小脇に抱えられて裏返しになっていた。ここでは身分を隠す必要があるらしい。
「臭うわね」
私は鼻を鳴らした。
市場の空気は、庁舎の乾燥した空気とは正反対だ。
腐りかけた野菜、解体された家畜の血、安っぽい香辛料、そして大勢の人間の汗。それらが熱気で煮詰められ、喉に張り付くような密度を持っている。
「呼吸を浅くしろ。慣れるまでは酔うぞ」
レオニスは雑踏をかき分け、先へ進む。
肩がぶつかるたびに、彼は無言で道を譲り、あるいは譲らせた。その足取りに迷いはない。
私は彼の影に隠れるようにして歩いた。
道の両脇には、板切れとトタンで作られた屋台が隙間なく並んでいる。
売り手たちが大声で客を呼び込み、買い手たちが値切り交渉の怒声を張り上げている。
生者の声だ。
エネルギーの塊。
ここでは死者の囁きなど、圧倒的な生活音にかき消されて聞こえない。
「……腹が減ったと言っていたな」
レオニスがある屋台の前で足を止めた。
鉄板の上で、串に刺さった肉が焼かれている。
脂が炭に落ち、白い煙がもうもうと立ち上っていた。
「これ?」
私は焦げ目のついた肉片を見た。
「何の肉?」
「聞くな。火が通っていればタンパク質だ」
レオニスは小銭を取り出し、店主に渡した。
汚れたエプロンをした店主が、歯のない口を開けて笑い、串を二本、油紙に包んで差し出す。
私たちは路地の端、荷車の陰に移動してそれを食べた。
肉は硬かった。
筋が多く、噛み切るのに顎の力が要る。だが、強い塩気と香辛料の味が、空腹の胃袋を直接殴ってくるような満足感を与えた。
「……悪くないわ」
私は口の端についた脂を手の甲で拭った。
「オートミールよりは生きる気力が湧く」
「だろうな。ここの連中は、生きるために食っている。味など二の次だ」
レオニスは串をきれいに平らげ、ゴミ箱代わりのドラム缶に投げ入れた。
「行くぞ。リサが待っている」
「この奥?」
「ああ。正規の病院に行けない連中が集まる場所だ」
市場の喧騒を抜け、細い路地に入る。
光が届かない。
地面は汚水でぬかるみ、壁には正体不明の蔦が這っている。
空気の温度が下がった気がした。
路地の突き当たりに、破れたテントが張られていた。
入り口には赤十字のマークが手書きされているが、塗料が垂れて血のように見えた。
中から、押し殺したような呻き声が聞こえる。
レオニスがテントの布を捲る。
中は薄暗く、消毒液と膿の臭いが充満していた。
簡易ベッドがいくつか並び、そこに横たわる人々は皆、虚ろな目で天井を見上げている。
「……来たかい」
奥の机で書き物をしていたリサが、顔を上げた。
白衣は薄汚れ、目の下の隈は昨日よりも濃くなっている。
彼女は咥えていたシガレットを灰皿に押し付け、立ち上がった。
「患者の様子は」
レオニスが尋ねる。
「最悪だよ。見てみな」
リサは手近なベッドの男を指差した。
若い男だ。体格はいいが、手足が痙攣している。
彼の目は開いていたが、焦点が合っていない。口元には泡が吹いていた。
「痛みを感じないんだ」
リサが男の腕を捲り上げた。
そこには無数の傷跡があり、いくつかは新しく、化膿していた。
「自分で壁を殴ったり、刃物を握ったりしても平気な顔をしている。恐怖心が麻痺して、自分が無敵だと思い込む。そして薬が切れると、こうやって人形みたいになる」
私は男の顔を覗き込んだ。
生きている。呼吸もしている。
だが、その体から聞こえてくるはずの「生者の音」が、極端に小さい。
心臓の音だけが、早鐘のようにうるさく響いている。
「昨夜の自爆犯たちと同じ症状か」
レオニスが男の瞳孔を確認する。
「ああ。死ぬのが怖くない兵隊を作るための薬さ。市場の裏ルートで安く出回っている」
リサは机の引き出しを開け、小さなガラス瓶を取り出した。
中には、赤いカプセルが一粒入っている。
「患者のポケットに入っていた残りだ。成分分析をする設備はないが、タチが悪いのは確かだよ」
彼女は瓶を私に差し出した。
「ほら、出番だよ。探偵さん。こいつがどこから来たのか、聞いてみな」
私は瓶を受け取った。
冷たいガラスの感触。
中身は軽い。乾燥したただの粉末が入っているだけに見える。
私は目を閉じた。
市場の喧騒を遮断し、意識を指先に集中させる。
カプセルの被膜を通して、中の粉末の声を聞く。
――混ぜろ。もっとだ。
――血を入れろ。
声がした。
無機質な機械音ではない。
大勢の人間が作業している音。
蒸気。金属の回転音。そして、何かを煮詰める液体のような音。
――失敗作は捨てろ。
――川に流せ。
――『蛇』の餌にする。
「……工場ね」
私は目を開けた。
「大きな釜がある場所。蒸気の音がする。あと、川の近く」
「川沿いの工場か」
レオニスが地図を思い浮かべるように視線を動かした。
「王都の東区画、工業地帯には廃工場が多い。そこをアジトにしている可能性があるな」
「それだけじゃないわ」
私は瓶を振った。カラカラと乾いた音がする。
「材料の声がする。薬草や化学薬品じゃない。もっと生臭いもの」
――痛い。熱い。
――私の血を抜かないで。
微かだが、確かに聞こえた。
悲鳴だ。
この粉末は、何かの生き物をすり潰して作られている。
「……血が混じってる。誰かの血よ」
私が告げると、リサの顔色が強張った。
「血液製剤だって? そんな高度な設備、ただのゴロツキに用意できるはずがない」
「材料は現地調達かもね」
私はベッドの上の男を見た。
彼の腕の傷跡は、ただの自傷行為だろうか。それとも、何かを採取された跡だろうか。
「場所を特定できるか」
レオニスが私に迫る。
「音だけじゃ無理。でも、匂いの記憶がある」
私は瓶を鼻に近づけるフリをした。実際には、聴覚で匂いを再現する。
「硫黄と、腐った藻の匂い。それと、鐘の音。低い、壊れた鐘の音」
「壊れた鐘……」
リサがシガレットを取り出した。
「東区画の端に、空襲で半分崩れた教会がある。そこの鐘楼は傾いていて、風が吹くと変な音が鳴るって噂だ」
「廃教会か」
レオニスは上着を着直した。
「条件は揃ったな。川沿い、廃墟、そして地下設備を隠せる場所」
「行くのかい?」
リサがマッチを擦る。
「相手は恐怖を感じない薬漬けの集団だよ。将軍一人と、子供一人で?」
「偵察だ」
レオニスは短く答えた。
「それに、俺の部下には優秀なレーダーがついている」
「レーダー兼、おやつ係よ」
私はポケットの中の飴の缶を叩いた。
「残業手当、弾んでよね」
リサは紫煙を吐き出し、苦笑した。
「気をつけてな。怪我をしたらまた縫ってやるけど、死んだら検死解剖しかできないからね」
私たちはテントを出た。
外の空気は相変わらず生ゴミと熱気の臭いがしたが、瓶の中の「血の音」を聞いた後では、それが平和な日常の香りに思えた。
レオニスは東の方角、工場の煙突が並ぶ空を見上げた。
空は曇っていた。
再び雨が降るかもしれない。




