第26話 煙
エレベーターの扉が開くと、そこは別世界だった。
一階の喧騒が嘘のように消え失せている。
靴底が沈み込むほど分厚い深紅の絨毯。磨き上げられたマホガニーの壁。
空気も違う。埃と汗の代わりに、高価な葉巻と革張りのソファの匂いが漂っていた。
私は廊下を歩いた。
足音が吸い込まれて消える。
すれ違う職員も、下の階のように走ったりはしない。書類を小脇に抱え、音もなく滑るように移動している。
彼らは私の継ぎ接ぎだらけの姿を一瞥したが、首から下げた『特別調査員』のカードを見ると、すぐに視線を外して関わり合いになるのを避けた。
廊下の突き当たりに、両開きの重厚な扉があった。
『第一会議室』のプレート。
扉の前には二人の衛兵が直立している。
「レオニス将軍に届け物です」
私がカードを提示すると、衛兵は無言で敬礼し、扉の取っ手に手をかけた。
蝶番が油を差された滑らかな音を立て、扉が開く。
中から、紫煙と共に、押し殺したような怒声が漏れ出してきた。
「……ですから、認められません」
私は足を踏み入れた。
部屋は広かった。
中央に長いテーブルがあり、その端と端に、レオニスと、恰幅の良い禿頭の男が対峙している。
禿頭の男の背後には、数人の書記官が控え、タイプライターではなくペンで議事録を取っていた。
レオニスは上着を椅子の背に掛け、シャツの袖を捲っていた。目の前には灰皿があり、吸い殻の山ができている。彼が吸ったものではない。向かいの男がチェーンスモークした残骸だ。
「予算局長」
レオニスが低い声で言った。
「橋の修繕費と、国境警備隊の増員だ。必要経費だと言っている」
「必要ありません」
予算局長と呼ばれた男は、太い指で葉巻を灰皿に押し付けた。
「昨夜の事故は、ガスボンベの不具合でしょう? 貴官の報告書にそう書いてある。単なる設備の老朽化に、なぜテロ対策費ごとき巨額の予算が必要なのですか」
レオニスが眉間を押さえた。
自分のついた嘘――外交問題にしないための「事故」という偽装――が、今になって首を絞めているらしい。
「老朽化が見過ごされたのは、点検の人員不足が原因だ。だから増員を……」
「それは貴官の管理不足です」
局長は冷ややかに切り捨てた。
「大体、特務隊の使途不明金が多すぎる。先日の『毒麦粉事件』でも、ヴァレク少佐の横領を摘発したそうですが、押収した金品の行方が不明瞭だ。貴官が私腹を肥やしているという噂すらある」
言いがかりだ。
だが、レオニスは反論できない。押収品の中には、公にできない「蛇」の手掛かりが含まれているからだ。
私は音を立てないように、壁際を伝ってレオニスの背後へ近づいた。
部屋の空気は淀んでいる。
言葉の応酬とは裏腹に、物質的な「音」が雄弁に語っていた。
耳を澄ます。
予算局長の机の上。積み上げられた書類の束。
そこから、紙と紙が擦れ合う、微細な悲鳴が聞こえる。
――違う。挟まってる。
――数字が合わない。
――下の紙と上の紙で、桁が一つ違う。
私はレオニスの椅子の後ろに立った。
「コーヒーのおかわりはいかがですか、ボス」
小声で囁く。
レオニスは驚きもせず、また振り返りもしなかった。
「砂糖を入れろ。頭の硬い古狸を溶かせるくらい大量にな」
彼は視線を局長に向けたまま答えた。
私はテーブルの上の水差しを手に取った。
そして、わざとらしく局長の近くへ歩み寄る。
局長が私を睨んだ。
「なんだ、その子供は。部外者を入れるな」
「新入りの雑用係です」
私は局長の目の前のグラスに水を注いだ。
「喉が渇いていらっしゃるようなので」
水が注がれる音に紛れて、私は局長の手元にあるファイルの声を聞いた。
革の表紙が高い音で鳴いている。
――重い。閉じられない。
――二重帳簿だ。
――裏表紙のポケット。別荘の権利書。
「……あら」
私は水を注ぐ手を止めた。
「局長、そのファイル、悲鳴を上げてますよ」
「何?」
局長が眉をひそめる。
「閉じ具が歪んでるんです。中に異物が挟まってるみたい」
私はファイルの背表紙を指先でつついた。
「例えば、裏表紙のポケットとか。厚紙にしては分厚すぎる」
局長の顔色が、瞬時に土気色に変わった。
彼は反射的にファイルを手で覆い隠した。
その動作が、あまりに露骨だった。
レオニスの目が、鷹のように鋭くなった。
彼は私の言葉の意味――そして局長の反応の意味――を瞬時に理解した。
「……局長」
レオニスがゆっくりと立ち上がった。
「そのファイル、少し拝見しても?」
「な、何を! これは機密文書だ!」
局長はファイルを抱えて椅子ごと後退った。
「貴官に見せる義務はない! 今日の会議はここまでだ! 解散!」
彼は逃げるように立ち上がり、部下たちに撤収を命じた。
「行くぞ! 次の予定がある!」
嵐のように去っていく局長と書記官たち。
バタン、と重い扉が閉まる音がして、部屋には静寂が戻った。
「……逃がしたな」
レオニスが椅子に座り直し、ネクタイを緩めた。
「だが、予算の拒否も撤回されたと見ていいだろう。あんな顔をして逃げたんだ。しばらくは俺の顔色を窺うことになる」
「別荘の権利書を持ってるみたいよ」
私は空のグラスをテーブルに置いた。
「ファイルが自慢してたわ。『湖畔の別荘だ』って」
「汚職の証拠か。後で情報部に洗わせる」
レオニスは水差しを掴み、自分のグラスに水を注いで一気に飲み干した。
「助かった。お前が来なければ、拳銃を抜くところだった」
「短気ね。でも、これで仕事に戻れるわ」
私はポケットから包帯を巻かれた手を出して振った。
「『蛇』探し。どこから始める?」
レオニスは上着を手に取り、立ち上がった。
「市場だ。リサから連絡があった。闇市で奇妙な薬が出回っているらしい」
「薬?」
「飲むと恐怖心が消える薬だ。昨夜の自爆犯たちも使っていた可能性がある」
彼は扉に向かって歩き出した。
「行くぞ。昼飯は市場の屋台で奢ってやる」
「屋台? 衛生面は大丈夫?」
「火を通せば毒も栄養だ」
私は肩をすくめ、彼の後ろに続いた。
高級な絨毯を踏む感触よりも、泥のついた市場の地面の方が、私には合っている気がした。




