第25話 障壁
水たまりを踏むたびに、靴底から冷たい感触が伝わってくる。
昨夜の雨は上がっていたが、路面はまだ濡れて黒く光っていた。
私は包帯の巻かれた右手をコートのポケットに突っ込み、左手で重たい鉄の扉を押し開けた。
戦後処理局、本庁舎一階。
そこは、戦場とは別の種類の戦場だった。
天井の高いロビーには、数百もの事務机が整然と並べられている。
タイプライターを叩く打鍵音が、機関銃の射撃音のように途切れなく響き渡っていた。
紙の擦れる音。
電話のベル。
そして、怒号と嘆願が入り混じった職員たちの声。
「北部の食糧配給リスト、まだ届かないのか!」
「予算が足りません! 財務課に回してください!」
「その案件は管轄外だ、三階へ行け!」
空気は乾燥し、埃とタバコの煙、それに安っぽいコーヒーの匂いで白く濁っている。
私は人の波を縫うようにして進んだ。
すれ違う職員たちは皆、目の下に隈を作り、書類の束を抱えて走っている。
誰も私のことなど見ていない。子供が一人紛れ込んでいても、ここでは風景の一部だ。
目指すのは奥にあるエレベーターだ。レオニスの執務室がある上層階へ行くには、あそこを通る必要がある。
私はエレベーターホールの前にある受付カウンターに近づいた。
「身分証を」
カウンターの中に座っていた男が、書類から顔も上げずに言った。
髪を油で撫でつけ、黒いアームカバーをつけた事務官だ。机の上には「受付担当」という札がある。
私はポケットから、昨日もらったばかりのカードを取り出し、カウンターに置いた。
プラスチックの硬い音がする。
男はチラリと視線を落とし、すぐに鼻で笑った。
「子供の遊び場じゃないんだ。迷子なら警察へ行きなさい」
彼はカードを指先で弾き返した。
「本物よ」
私はカードを指で押さえた。
「特務隊のレオニス将軍に呼ばれてるの。八時に来いって」
「将軍閣下のアポイントメント?」
男はようやく顔を上げ、私を値踏みするように見た。
薄汚れた軍用コート。包帯の巻かれた手。そして、寝癖のついた髪。
彼の目の中で、「不審者」という判断が下されるのがわかった。
「予約リストに名前はない」
彼は手元の台帳をめくりもせずに断言した。
「それに、閣下は今朝から重要会議中だ。部外者を会わせるわけにはいかない」
「リストを見てないでしょ」
「見なくてもわかる。毎日君みたいなのが来るんだよ。戦災孤児の寄付金目当てか、あるいは職を求めてか。帰れ」
彼は再び書類に目を落とし、ペンを握った。
会話終了の合図だ。
私は溜息をついた。
これが「役所」というやつだ。前線よりも壁が厚い。
強行突破すれば憲兵を呼ばれるだろう。それは面倒だ。
私はカウンターに肘をつき、耳を澄ませた。
この男の周辺から、何か「使える音」がしていないか探る。
タイプライターの音。足音。話し声。
それらの隙間に、微かだが、切迫した「物」の声が混じっていた。
――ここだ。ここにある。
――挟まったままだ。
――見つけてくれ。決済が降りない。
紙の声だ。
それも、一枚や二枚ではない。重要な書類が、本来あるべき場所ではないところに閉じ込められている。
――期限が切れる。
――今日までだ。
声の出所は、目の前の男の机の右側。
引き出しの奥ではなく、もっと物理的な「隙間」。
「……ねえ」
私は男のペン先を指でつついた。
「何だ。まだいたのか」
男が苛立たしげに顔を上げる。
「困ってるんじゃない?」
「は?」
「第三地区の復興予算申請書。一枚足りなくて、上司に怒られてるでしょ」
男の表情が凍りついた。
ペンの動きが止まる。
「な、なぜそれを……」
「顔に書いてあるわよ。あと、その引き出しの裏側が教えてくれた」
私はカウンターの横に回り込み、男の机の側面を蹴った。
「ここ。一番下の引き出しを抜いてみて」
「何を勝手な……!」
「いいから。期限、今日までなんでしょ?」
男は半信半疑で、一番下の引き出しを引いた。
ガコッという音がして、ストッパーが外れるまで引き出す。
彼は床に這いつくばり、引き出しの奥――筐体との隙間――に手を突っ込んだ。
カサリ。
乾いた音がした。
「……あっ」
男が引き抜いた手には、埃まみれの封筒が握られていた。
赤いスタンプで『至急』と押された、分厚い封筒だ。
「あ、あった……! 先週から探していたんだ……!」
男の手が震えている。
封筒は、引き出しの裏側に滑り落ちて挟まっていたらしい。
「よかったわね。クビにならなくて」
私はカウンターに戻り、弾き返された身分証を指差した。
「で、これ。通してくれる?」
男は封筒を大事そうに胸に抱え、それから私の身分証を手に取った。
今度は、先ほどのような侮蔑の目ではない。
畏怖と、少しの感謝が混じった目だ。
「……失礼しました、特務調査員殿」
彼は立ち上がり、エレベーターホールへのゲートを開けるボタンを押した。
ブーッ、というブザー音が鳴り、遮断機が上がる。
「レオニス閣下は四階の第一会議室にいらっしゃいます。ですが……」
彼は言い淀んだ。
「ですが?」
「会議は紛糾しています。予算委員会との折衝で、昨夜から缶詰め状態です。近づくと火傷しますよ」
「火傷なら慣れてるわ。軟膏も持ってるし」
私はゲートをくぐった。
背後で、男が慌てて電話をかけ始める声が聞こえる。「ありました! 書類、見つかりました!」という興奮した声。
エレベーターホールには、四基の籠が並んでいた。
私は一番端のボタンを押した。
古いモーターが唸りを上げ、籠が降りてくるのを待つ。
ここから先は、死体や爆弾魔ではなく、数字と法律という怪物が巣食う場所だ。
私はポケットの中で、昨日レオニスに巻いてもらった包帯の感触を確かめた。
痛みは引いている。
よし、戦える。
チーン、とベルが鳴り、エレベーターの扉が開いた。
中には誰も乗っていない。
私は鉄の箱に乗り込み、四階のボタンを強く押した。




