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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第24話 雨音

 ワイパーが扇状に動き、フロントガラスに叩きつけられる雨粒を弾き飛ばしていた。

 ゴムがガラスを擦る低い音が、車内の沈黙を一定のリズムで区切っている。

 王都に入っても、雨脚は弱まるどころか強まっていた。

 路面の水たまりをタイヤが跳ね上げ、車体の底を洗う音がする。


 「……臭うわ」

 私は鼻をつまんだ。

 「このスーツ、濡れると獣の臭いがする。羊小屋にいるみたい」

 「ウールとはそういうものだ」

 レオニスは前を向いたまま、ギアを変えた。

 「乾かせば消える。クリーニングに出しておけ」

 「経費で?」

 「業務中の汚れだ。請求書を回せ」


 管理局の正門が見えてきた。

 雨の中、衛兵が合羽を着て立っている。

 ジープのヘッドライトが雨のカーテンを照らし出し、ゲートの鉄格子を浮かび上がらせた。

 衛兵がレオニスの顔を確認し、敬礼と共にゲートを開ける。


 車寄せにジープが止まる。

 屋根のある場所だが、吹き込む風が雨飛沫を運んでくる。

 エンジンを切ると、車内は急に静まり返り、外の雨音だけが強調された。


 「降りろ」

 レオニスがドアを開ける。

 湿った冷気が入り込み、ヒーターで温まっていた空気を追い出した。


 *


 夜の庁舎内は、照明が落とされ、薄暗かった。

 当直の職員が数人、廊下の奥で行き来しているだけだ。

 私たちの濡れた靴が、リノリウムの床に新しい足跡を刻んでいく。

 キュッ、キュッ、という摩擦音が廊下に響く。


 執務室に入ると、レオニスは明かりをつける前にカーテンを閉めた。

 それからデスクのランプを灯す。

 黄色い光が、彼の濡れたシャツと、乱れた髪を照らし出した。


 「報告書を書く」

 彼は椅子に座らず、立ったまま上着を脱いだ。

 シャツが肩に張り付いている。

 「お前は帰っていい。今日は長かった」


 「そうね。橋を直して、爆弾魔を蹴り落として、狙撃を避けただけ」

 私はソファに座り込み、濡れた借り物のジャケットを脱いだ。

 シャツも湿っているが、ストーブをつける気力もない。

 

 「……手を見せろ」

 レオニスが私の前に来た。

 彼は救急箱を持ってきていた。いつの間に取り出したのか、ガーゼと消毒液の瓶が手にある。


 「自分でできるわよ」

 「右手が使えないだろう」

 彼は私の手首を掴み、橋の上で巻いたハンカチを解いた。

 泥と血で汚れたハンカチが床に落ちる。

 掌の皮がめくれ、赤く滲んでいた。


 彼は無言で消毒液を浸した綿を押し当てた。

 「っ……」

 しみる痛み。私は反射的に手を引こうとしたが、彼の指が強く固定していた。

 手際よくガーゼを当て、包帯を巻いていく。

 その指先は冷たかったが、処置は正確だった。


 「明日、リサに見せろ。化膿止めが必要かもしれん」

 彼は包帯の端を留め具で固定し、私の手を離した。


 「ありがとう、ボス」

 私は包帯を巻かれた手を握ったり開いたりした。

 「これで明日の書類整理もできるわね」


 レオニスはデスクに戻り、引き出しを開けた。

 中から、あの「二匹の蛇」の刺繍が入った布切れを取り出す。

 彼はそれをランプの光にかざし、しばらく見つめていた。


 「……『蛇』は、まだ市内に潜んでいる可能性がある」

 彼が独り言のように呟く。

 「捕虜交換は終わったが、奴らの目的が『混乱』なら、次は別の場所を狙うはずだ」


 「例えば?」

 「市場、配給所、あるいはこの管理局だ」

 彼は布切れを引き出しの奥へしまい、鍵をかけた。

 カチャリ、という音が重く響く。


 「レティ。寮に帰ったら鍵をかけろ。窓もだ」

 「わかってるわよ。幽霊よりも生きた人間の方が怖いって、今日よくわかったから」


 私は立ち上がり、濡れたジャケットを小脇に抱えた。

 「じゃあ、お先に。明日の朝は?」

 「八時だ。それまでは死んだように寝ていろ」

 「了解」


 私はドアに向かった。

 ノブに手をかけた時、背後でレオニスが言った。


 「……助かった」


 振り返ると、彼はすでに書類に向かい、ペンを動かしていた。

 顔は見えない。

 ただ、耳の端が、ランプの熱のせいか、少し赤く見えた。


 「どういたしまして。ボーナスに期待してるわ」

 私は軽く手を振り、部屋を出た。


 *


 寮までの道は、雨音に支配されていた。

 傘はない。ジャケットを頭から被り、水たまりを避けて走る。

 街灯の明かりが雨に乱反射し、視界を歪ませる。


 寮の入り口に滑り込むと、管理人の部屋はすでに消灯されていた。

 湿った木の匂い。

 私は階段を登った。

 一歩ごとに、靴の中の水がグジュリと音を立てる。


 三〇五号室。

 鍵を取り出し、回す。

 ドアを開けると、暖かい空気が迎えてくれた。


 部屋は暗かった。

 ミレイナはすでにベッドに入り、規則正しい寝息を立てている。

 私は音を立てないように靴を脱ぎ、濡れた靴下を脱衣籠へ投げ入れた。


 机の上には、ジャムの瓶が置いてある。

 赤いガラスが、窓から差し込む街灯の光を受けて鈍く光っていた。


 私は濡れた服を着替え、タオルで髪を拭いた。

 包帯を巻かれた手が、少し痛む。

 ベッドに腰を下ろす。

 スプリングがきしむ音。


 「……」

 私はジャム瓶を引き寄せた。

 蓋を開ける。

 スプーンですくう。

 赤い果肉を口に運ぶ。

 

 甘い。

 橋の上での硝煙の味も、川水の泥臭さも、すべてこの甘さが塗り潰してくれる。


 私は瓶の蓋を閉め、枕元に置いた。

 毛布を肩まで引き上げる。

 雨音が窓を叩いている。

 

 耳を澄ませてみる。

 壁の向こう、床の下、天井の裏。

 死者の声は聞こえない。

 ただ、遠くで犬が吠える声と、雨樋を水が流れる音だけが聞こえる。


 私の名前はレティ。

 戦後処理局の調査員。

 明日は八時出勤。仕事内容は書類整理と、たぶん「蛇」探し。

 

 私は目を閉じた。

 意識が落ちる直前、ポケットの中の硬い飴の缶の感触を思い出した。

 明日はレモン味を食べよう。

 そう決めて、私は深い眠りの底へと沈んでいった。

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