第23話 舞い散る紙片
革の鞄が弾けた音は、銃声よりも大きく聞こえた。
中に詰め込まれていた書類が、破裂した枕の中身のように空中に噴き出す。
白い紙の雪崩が、川風に煽られて視界を埋め尽くした。
私はレオニスの軍服の襟を掴んだまま、赤い絨毯の上に倒れ込んでいた。
背中には彼の重みがある。
いや、違う。彼が私を押し潰しているのではない。彼が腕を回し、私の頭を抱え込んで地面に張り付かせているのだ。
「動くな」
耳元で低い声がした。
鉄の匂い。レオニスが抜いた拳銃の冷たい匂いだ。
橋の上はパニックに陥っていた。
外交官が悲鳴を上げながら、欄干の影に這いずる。
護衛の兵士たちが銃を構え、銃口の向きを定められずに右往左往している。
「撃つな! まだ撃つな!」
レオニスが叫んだ。彼の声は、混乱したどよめきを切り裂いて響いた。
「射線は前方、時計塔の方角だ! 我々ではない!」
私はレオニスの腕の隙間から、対岸を見た。
相手側の陣営も混乱の坩堝にある。
車椅子の少年を守るように、老将軍が立ち塞がっている。
兵士たちが銃を構えているが、彼らもまた、どこから撃たれたのか理解していない顔だ。
耳を澄ます。
風の音。川の音。心臓の音。
そして、遥か遠く、対岸の霧の向こうから届く、乾いた「舌打ち」の残響。
――風が巻いた。
――あと数センチ右だった。
――次は外さない。
「……レオニス」
私は彼の袖を引いた。
「まだいる。時計塔の上。装填してる音がする」
「わかった」
レオニスは私を抱えたまま、匍匐で外交官の落とした鞄の陰へ移動した。
「総員、退避! 車両の影に入れ!」
その時、白い影が動いた。
セレナだ。
彼女は伏せていなかった。
レオニスから借りた軍用コートをなびかせ、弾が飛んできた方向――自分の弟がいる対岸――に向かって、ゆっくりと歩き出したのだ。
「おい、戻れ!」
レオニスが声を荒げる。
セレナは止まらなかった。
彼女は両手を広げ、自分が標的であることを晒すように、赤い絨毯の上を進む。
風が彼女の銀髪を巻き上げる。
「撃ちなさいよ!」
彼女の声が響いた。
鈴のような声ではない。ガラスを叩き割るような、鋭利な叫びだ。
「私の目の前で、私の弟を狙う臆病者はどこの誰? 出てきて私の眉間を撃ち抜いてみなさい!」
橋の空気が凍りついた。
敵も味方も、銃を下ろすのを忘れて彼女を見つめた。
対岸の時計塔からの「声」が揺らぐ。
――視線が遮られた。
――あの女が邪魔だ。
――命令にはない。撤退する。
「……逃げた」
私は地面に耳をつけたまま呟いた。
「ライフルを畳む音がした。諦めたみたい」
レオニスが即座に立ち上がった。
彼は銃を収めず、しかし銃口を下に向けたまま、セレナの背後へ走る。
対岸では、老将軍が車椅子の少年を連れて、こちらへ歩み寄ってきた。
橋の中央で、奇妙な会合が成立した。
銃を構えた兵士たちに囲まれ、書類が散乱する中で、セレナと少年が向き合う。
「姉上……」
少年が震える手を伸ばす。
セレナはその手を取らなかった。
彼女は屈み込み、少年の膝にかけられた毛布を直しただけだ。
「泣かないで、アル。見っともないわ」
「でも、姉上が……」
「私は帰るだけよ。あなたたちが守れなかった場所にね」
彼女は老将軍を見上げた。
「私の身柄は、確かに引き渡されました。これ以上の流血は不要です」
「……承知した、殿下」
老将軍は深々と頭を下げた。彼が睨んでいるのは私たちではなく、背後の時計塔の方角だった。彼も気づいているのだ。銃弾が「身内」から放たれたことに。
レオニスが割って入った。
「取引は成立だ。貴官らの内部事情には干渉しないが、こちらの外交官の鞄を弁償してもらいたいところだな」
「……善処しよう」
老将軍は短く答え、セレナと少年を促して反転した。
セレナは一度だけ振り返った。
私を見る。
そして、口の端に微かな笑みを浮かべ、口パクで何かを言った。
『借りておくわ』
彼女の肩には、まだレオニスの軍用コートが掛かったままだった。
*
「……私の鞄が! 重要書類が!」
外交官が半泣きで散らばった紙を拾い集めている。
風に飛ばされた何枚かは、すでに川面へと落ち、白い泡となって消えていた。
私は膝の泥を払い、立ち上がった。
手のひらがヒリヒリする。絨毯の下の鉄板で擦りむいたらしい。皮がめくれ、少し血が滲んでいる。
「撤収だ」
レオニスが戻ってきた。
彼は上着を失い、シャツ姿になっていたが、その背筋は相変わらず鉄骨のように真っ直ぐだった。
彼は私の前で立ち止まり、私の手を取った。
「怪我は」
「かすり傷よ。舐めておけば治る」
「犬じゃないんだ。消毒する」
彼はポケットからハンカチを取り出し、私の掌に巻き付けた。
きつく縛られる。
「痛い」
「我慢しろ。血が止まればいい」
私たちはジープに戻った。
外交官は別の車に乗せられ、護衛と共に先に発車していった。
私たちの車だけが、橋のたもとに取り残される。
レオニスは運転席に座り、エンジンをかけたが、すぐには発車しなかった。
彼はハンドルに額を押し付け、長く息を吐いた。
「……狙いは俺か、それとも和平交渉そのものか」
「両方じゃない?」
私は助手席で、ハンカチを巻かれた手を眺めた。
「でも、犯人は向こう岸にいた。つまり、敵の中にも『戦争を終わらせたくない連中』がいるってことよ」
「こちらの『蛇』と、あちらの狙撃手」
レオニスが顔を上げる。
「根は同じか」
私はダッシュボードに足を乗せた。行儀が悪いが、今日は許されるだろう。
借り物のスーツの裾がめくれ、擦りむいた膝が見える。
「ねえ、ボス」
「なんだ」
「あのお姫様、あなたのコートを着て行っちゃったわよ。寒くないの?」
レオニスはシャツの袖を捲りながら、エンジンを吹かした。
「くれてやるさ。その代わり、高い貸しを作った」
「貸し?」
「彼女は俺たちの目の前で狙撃された。つまり、彼女の命を脅かしているのは我々ではなく、彼女の祖国の何者かだという証明になった」
ジープが動き出す。
車輪が砂利を噛む音が、銃声の余韻を消していく。
「彼女は賢い。その意味を理解して動くだろう」
レオニスはバックミラーを見た。
「敵地で孤立した女王ほど、利用価値のある駒はない」
私は窓を開けた。
火薬の匂いはもうしない。代わりに、雨の匂いが混じり始めていた。
空が暗くなっている。
「……飴、食べる?」
私は缶を差し出した。
レオニスは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手を出した。
私は黄色い粒――レモン味――を彼の掌に落とした。
彼はそれを口に含み、ガリリと噛み砕いた。
甘酸っぱい香りが、車内の殺伐とした空気を少しだけ和らげる。
私たちは言葉を交わさず、王都への帰路を急いだ。
雨が、フロントガラスを叩き始めていた。




