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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第226話 母との決別

 水が扉の敷居を越え、靴の底を浸す冷たさが革越しに伝わってくる。

 トランクの隙間に最後の革表紙の束を押し込み、上から蓋に体重をかけて押し下げる。

 金属の留め金を噛み合わせ、固定の部品を弾く。

 硬い音が狭い部屋に反響する。

 トランクの取っ手を握り、持ち上げる。

 手首に重さがのしかかり、革の持ち手が軋む音がした。


 部屋の外へ出る。

 通路の水位はすでに足首の位置まで上昇している。

 レオニスが倒れた男の首元から手を離し、立ち上がる。

 彼のコートの裾から水滴が連続して床の海面に落ちる。

 透明な壁面を走る亀裂の摩擦音が大きくなり、噴き出す水流が通路の反対側の壁を叩きつけている。


 「上へ向かう」

 レオニスが私の手からトランクの取っ手を奪い取る。

 私たちは螺旋階段へ向けて、水の抵抗を足に受けながら進む。

 階段の金属の段を蹴り、上層へ駆け上がる。

 下から、ガラスが完全に砕け散る重い破壊音と、大量の海水が空間を埋め尽くす轟音が追いかけてきた。


 階段を上りきり、カジノフロアの奥の通路に出る。

 靴から水が滴り、絨毯に濃い色の染みを作る。

 フロアはすでに客の姿がなく、倒れた椅子や散乱した硬貨だけが残されている。

 通路の突き当たり、昇降機の前。

 そこに女が立っていた。

 彼女の両脇には、武器を手にした男たちが控えている。


 女の視線が、レオニスの手に下げられた革張りのトランクに固定される。

 彼女の顔の筋肉が硬直している。


 私はレオニスの横を通り抜け、女の正面で足を止めた。

 「地下の金庫の中身は、全て私が差し押さえたわ」

 私の声が、静まり返った通路に響く。

 「あなたのパトロンが所有する施設も、今は海の水底よ。資金の供給もここで途絶える」


 女の口がわずかに開く。

 「私の研究データ……」

 喉から絞り出された音が、空気を震わせる。


 「手元に残る資産はゼロよ」

 私はコートのポケットに手を入れる。

 「あとは自力で働き、残りの借金を払いなさい。利子の計算は止めてあげないわ」


 女の顔から表情が抜け落ちる。

 両脇の男たちがレオニスと私の様子を伺い、銃のグリップを握る手を動かす。

 レオニスが空いた手でコートの裏の銃の柄に触れる。

 金属の擦れる音が鳴る。

 男たちの動きが止まった。


 私は女から視線を外し、彼女の横を通り過ぎる。

 レオニスがトランクを持ったまま私の後に続く。

 背後から声はかからなかった。


 建物の外に出る。

 潮の匂いを含んだ風が、濡れたコートの表面から熱を奪っていく。

 私たちは歩き続け、宿泊している施設の部屋に戻った。


 部屋の扉を閉め、レオニスがトランクをテーブルの上に置く。

 留め金を外し、蓋を開く。

 私は中から革表紙のファイルの束を取り出し、天板の上に広げた。

 湿気を吸った紙のページを指で慎重にめくる。

 紙が互いに張り付き、剥がれる際に低い音が鳴る。


 数枚のページをめくった先。

 折り畳まれた大判の紙が挟まっている。

 紙を広げると、大陸の地図と、山脈の奥に記された施設の構造図が現れた。

 施設の名称と、実験体の輸送経路を示す線が書き込まれている。

 組織の拠点の位置情報。


 「次の目的地ね」

 私は地図の端を指の腹で叩いた。

 紙が軽く鳴る。


 レオニスは鞄から布を取り出し、自身の銃の表面についた水滴を拭き取っていた。

 金属部品を分解し、布を滑らせる規則的な音が部屋に響く。

 「列車の切符と、寒冷地用の装備を調達する必要がある」

 彼は布の端を折り返し、シリンダーの溝を拭う。

 「全額、経費から落とすわ」

 私は地図を元の大きさに折り畳み、ファイルの間に挟み直した。

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