第222話 母のスポンサー
息を飲み込む小さな音が室内に響いた。
直後、女の顔の筋肉が緩み、唇の両端が釣り上がる。
彼女はテーブルの上の手帳に視線を向けたまま、背もたれの高い椅子に腰を下ろした。
ドレスの裾が椅子の脚の金属部分に擦れる。
「相変わらず、計算の処理が早いのね」
女がグラスを持ち上げ、中の氷を揺らす。
ガラスと氷の衝突音が連続して鳴る。
「でも、その請求額をあなたが回収する手間は必要ないわ。私の研究は、間もなく完成の段階に入る。この都市の支配者が、無制限の資金を私に提供してくれているのよ」
私は手帳をコートのポケットに戻した。
「他人の財布を当てにしている時点で、支払い能力の欠如を自白しているのと同じよ。あなたの後ろ盾が誰であろうと、債権の取り立てを止める理由にはならないわ」
女はグラスをテーブルに置く。
結露した水滴が木の表面に円形の染みを作る。
「完成すれば、そんな額面以上の価値を生むわ。ただ、最後の部品が足りないの」
女の視線が、私の側頭部、耳の位置に固定される。
「あなたのその特異な聴覚。その機能構造を解析できれば、私の装置は広範囲の精神を完全に掌握できる。協力しなさい。そうすれば、請求書の通りの金貨を現物で用意してあげるわ」
「部品の提供と引き換えの支払い? それはただの新規の買取契約よ。過去の負債の返済とは別会計ね」
私はコートの襟を直し、テーブルから半歩下がる。
「それに、自分を解剖台に乗せるような取引に応じるほど、私は自分の価値を安く見積もっていないわ」
女が短く息を吐く。
彼女の視線が、私の後ろから彼女自身の背後へ向かって動いた。
部屋の壁際に立っていた黒い服の男たちが、同時に体を前に傾ける。
彼らの手が上着の裏側に伸びる。
布地が擦れる音。
ホルスターの留め金が革から外れる硬い音が、私の耳に届く。
私が口を開くより早く、背後のレオニスが動いた。
靴底が絨毯を蹴る音が一度だけ鳴る。
レオニスの体が私の横を通り抜け、テーブルの脇を通り過ぎる。
一番手前にいた男が銃のグリップを握り、引き抜こうとした瞬間、レオニスの手が男の手首を掴んだ。
男の腕が不自然な角度に捻り上げられる。
骨の関節が外れる鈍い音が部屋に響く。
男の口から短い呻き声が漏れ、膝が床に落ちる。
レオニスのもう一方の手が、男の手から滑り落ちた銃を空中で掴み取る。
レオニスの指が銃の金属部品に素早く引っかかる。
弾倉が本体から抜け落ち、絨毯の上に沈み込む。
スライドが引かれ、チャンバーの中に残っていた弾丸が排莢口から飛び出す。
真鍮の薬莢がテーブルの天板に当たり、高い音を立てて転がった。
レオニスは分解した銃の本体を男の胸に押し当て、壁際へ突き飛ばした。
男の背中が壁のパネルに衝突する音が鳴る。
他の男たちが動きを止める。
上着の裏に手を入れたまま、視線をレオニスに固定している。
「俺の雇用主との交渉に、金属の道具は必要ない」
レオニスは手袋の指先を直し、男たちと女の間に立つ。
「次に金具の音を鳴らした者は、腕の骨の構造を物理的に作り変える」
女の顔から笑みが消える。
彼女の視線がレオニスの背中と、床に落ちた弾倉の間を往復する。
グラスの中の氷が溶け、水面が微かに揺れている。
換気ダクトの低い稼働音だけが、室内の沈黙の隙間を埋めていた。




