第22話 赤い絨毯
ホームに降り立つと、早朝の湿った空気が頬を撫でた。
霧は晴れかけている。
駅舎の向こうから、朝日がレールの輝きを鈍く照らし始めていた。
「なっ……!」
駆け寄ってきた丸眼鏡の外交官が、絶句して立ち止まった。
彼は白い髪の女性の姿――破れたドレス、泥のついた裾、そして乱れた髪――を指差し、口をパクパクと開閉させた。
「なんだその格好は! 新聞記者が待っているんだぞ! これでは『虐待していた』と宣伝するようなものではないか!」
女性は外交官を一瞥もしなかった。
彼女は自分の手首に残る赤い手錠の痕を指先でなぞりながら、レオニスに言った。
「車は? 歩けと言うなら靴を用意して。ヒールが折れているの」
「用意してある」
レオニスは外交官を無視して歩き出した。
「裏口に回してある。記者には会わせん」
「待て、待ってください!」
外交官が小走りで追いすがる。
「式典の手順では、到着と同時に花束贈呈が……」
「中止だ。彼女は体調不良ということにする」
「しかし!」
レオニスは足を止めずに肩越しに言った。
「彼女を狙った暗殺未遂があったばかりだ。花束の中に手榴弾が入っていないと保証できるか?」
外交官は口をつぐんだ。
昨夜の「ガス爆発」の記憶が蘇ったらしい。彼は青ざめた顔でハンカチを取り出し、額を拭った。
私たちは駅舎の裏口から出た。
そこには、窓にカーテンを引いた大型の黒塗りの車が待機していた。
レオニスがドアを開ける。
女性は優雅にスカートを捌いて乗り込んだ。
私も続こうとして、レオニスに止められた。
「お前は助手席だ」
「へいへい。道化師は舞台裏がお似合いってことね」
私は大人しく助手席のドアを開けた。
レオニスが運転席に座る。
車が動き出す。
後部座席との間にはガラスの仕切りがあったが、スライドして開いていた。
バックミラー越しに、女性が窓の外を流れる景色を眺めているのが見える。
彼女の表情は読み取れない。
脳内ラジオも沈黙している。
先ほどの列車内での「砂埃のような声」は、彼女が意識的に漏らしていたものだったのかもしれない。
「……ねえ」
女性が口を開いた。視線は外に向けたままだ。
「お腹が空いたわ」
レオニスはハンドルを切りながら答えた。
「橋を渡れば食事が出る。それまで我慢しろ」
「我慢は得意よ。でも、血糖値が下がると機嫌が悪くなるの。機嫌が悪いと、式典で余計なことを喋るかもしれないわ」
あからさまな脅しだ。
レオニスは舌打ちをしそうになったが、こらえた。
彼は上着のポケットに手を伸ばそうとして、運転中であることに気づいたらしい。
チラリと私を見る。
「……レティ」
「わかってるわよ」
私は自分のダブダブのスーツのポケットを探った。
昨夜、レオニスから奪った缶がある。
私はそれを振り、音をさせた。
「飴ならあるわ。イチゴ味とレモン味、どっちがいい?」
女性が振り返った。
「イチゴを」
私は缶を開け、赤い粒を取り出した。
シートの隙間から後ろへ差し出す。
彼女の細い指が、私の掌から飴をつまみ上げた。
爪が整えられている。囚われの身でも、身だしなみだけは維持していたらしい。
カリ、と飴を噛む音がした。
「……安っぽい味ね」
「文句があるなら返して」
「いいえ。今はこれが最高のご馳走よ」
彼女はシートに深く背中を預けた。
「ありがとう、小さな道化師さん。名前は?」
「レティ」
「私はセレナ。……今のところはね」
セレナ。
それが彼女の名前か、あるいは通り名か。
私は前を向いたまま、飴を一つ自分の口に放り込んだ。
甘さが広がる。
彼女と同じ、安っぽいイチゴの味だ。
*
車は鉄橋の手前で停止した。
周囲には、すでに大勢の兵士と関係者が集まっている。
昨夜の爆発の痕跡は、見事に隠蔽されていた。
焼け焦げた欄干には紅白の幕が巻かれ、濡れた鉄板の上には真新しい赤い絨毯が敷き詰められている。
「降りろ」
レオニスがドアを開けた。
外に出ると、川風がスーツの裾を揺らした。
橋の向こう側、霧の晴れ間から、対岸の陣営が見える。
あちら側も同じように絨毯を敷き、一行が待機していた。
セレナが車から降りる。
彼女の姿が現れた瞬間、周囲の兵士たちがざわめいた。
その美貌と、ボロボロのドレスの対比が、あまりに劇的だったからだ。
「見世物じゃないぞ」
レオニスが鋭い声で周囲を牽制し、自分の軍用コートを脱いで彼女の肩にかけた。
「羽織っていろ。風邪を引かれては困る」
「優しいのね、看守さん」
セレナはコートの襟を合わせ、少しだけ笑った。
「時間だ」
丸眼鏡の外交官が、時計を見ながら駆け寄ってきた。
彼はセレナの肩にかかったコートを見て顔をしかめたが、文句を言う時間はなかったらしい。
「予定通り、橋の中央へ。相手側の代表も動き出しています」
レオニスが先導し、セレナが続く。
私はその後ろ、外交官たちの影に隠れるようにして歩き出した。
赤い絨毯を踏む。
フカフカとした感触の下に、硬い鉄板の存在を感じる。
耳を澄ます。
昨夜、私たちが締め直したボルトたちが、重みに耐えてきしんでいる。
――重い。
――支える。
――まだ落ちない。
「大丈夫そうね」
私は小声で呟いた。
「橋は悲鳴を上げてるけど、崩壊の歌じゃないわ」
橋の中央。
中立地帯の境界線で、列が止まる。
対岸から歩いてきた集団も、数メートル先で停止した。
先頭には、勲章をつけた老年の将軍。
その横に、車椅子に乗った少年がいる。足に毛布をかけ、顔色は蝋のように白い。
彼が交換相手の「重要人物」らしい。
「……」
セレナが足を止めた。
彼女の視線が、車椅子の少年に注がれる。
少年の目が大きく見開かれた。
「姉上……?」
少年の唇が動いた。声は風にかき消されたが、形ではっきりとわかった。
セレナは表情を変えなかった。
ただ、彼女の肩にかかったコートの下で、拳が強く握りしめられているのを、私は背後から見ていた。
レオニスが一歩前に出る。
相手側の将軍も歩み出る。
二人は無言で敬礼を交わし、握手を求めた。
その瞬間。
私の脳内ラジオが、強烈なノイズを拾った。
橋の下からではない。
対岸の集団の背後。
望遠レンズの反射光が光った場所から。
――撃て。
――握手の瞬間だ。
――頭を狙え。
「伏せて!」
私は外交官の背中を突き飛ばし、前へ飛び出した。
レオニスのコートの裾を掴み、彼を地面に引きずり倒す。
乾いた破裂音。
一瞬前までレオニスの頭があった場所を、見えない鉛の弾が通過し、背後の外交官の鞄を弾き飛ばした。
革の鞄が空中で裂け、中の書類が白い雪のように川風に舞った。




