第21話 檻の中の護衛者
ストーブの薪が燃え尽き、白い灰だけが残っていた。
私は椅子の上で身を縮め、借り物のスーツの襟に顔を埋めていた。ウールの生地は暖かいが、自分の服ではない違和感が、皮膚と布の間につきまとう。
外から、長く低い音が響いてきた。
獣の唸り声ではない。蒸気を吐き出す機械の咆哮だ。
「来たぞ」
入り口の幕が上がり、冷気と共にレオニスが入ってきた。
彼は新しい手袋を嵌めながら、私を見下ろした。
「寝癖がついている」
「セットする時間がなかったのよ。ブラシを貸してくれたら直すわ」
「後だ。列車がホームに入る」
私は椅子から飛び降り、ダブダブのズボンの裾を踏まないように気をつけながら彼に続いた。
外は夜明け前の深い藍色に沈んでいる。
霧が濃い。数メートル先のテントさえ、白い紗幕の向こうにあるようだ。
駅のプラットホームは、昨夜の静寂とは打って変わって騒然としていた。
投光器の光が霧を貫き、レールの上を舐めるように照らしている。
丸眼鏡の外交官が、数人の部下に向かって金切り声を上げていた。
「旗の位置が違う! もっと右だ! 赤十字のマークが隠れているじゃないか!」
私たちはその横を通り過ぎ、ホームの端に立った。
レールの彼方から、リズミカルな振動が伝わってくる。
ガタン、ガタン。
鉄の車輪が継ぎ目を踏む音。
「……レティ」
レオニスが前を向いたまま呼んだ。
「聞こえるか」
「ええ。うるさいくらいに」
私は目を閉じた。
視覚を遮断し、聴覚の感度を上げる。
列車の接近と共に、そこに乗っている「意志」たちが雪崩れ込んでくる。
――腹が減った。
――足が痛い。
――やっと帰れる。
――水、水をくれ。
先頭車両と二両目は、負傷兵や一般捕虜だ。彼らの思考は生存本能と疲労で埋め尽くされている。殺意の入り込む隙間はない。
だが、その奥。
機関車の排気音に隠れて、異質な沈黙を保っている車両がある。
三両目。窓のない貨車改造の客車。
私は意識のチューニングを合わせた。
そこには、捕虜のうめき声はない。
あるのは、もっと硬質で、張り詰めた思考だ。
――駅に着いた。
――手順通りに。
――ホームの混乱に乗じて処理する。
――事故に見せかけろ。
「……ビンゴ」
私は目を開けた。
列車がブレーキをかけ、金属の悲鳴のような音を立てて滑り込んでくる。
蒸気がホームに溢れ、視界が白く染まる。
「三両目よ」
私はレオニスの袖を引いた。
「中にいる護衛たち。彼らが『蛇』だわ」
「外部からの侵入者ではないのか」
「いいえ。最初から乗ってる。彼らの思考は『守る』ことじゃなく『処理する』ことに向いてる。『事故に見せかけて始末しろ』って相談してるわ」
レオニスの目が冷たく光った。
列車が完全に停止する。
プシューッという音と共に、ドアが一斉に開いた。
一両目と二両目からは、松葉杖をついた兵士たちが、衛生兵に支えられて降りてくる。
再会の歓声や、痛みによる呻き声がホームを満たす。
だが、三両目のドアは開かない。
重厚な鉄の扉が閉ざされたままだ。
ホームには、正規の憲兵隊が整列し、その車両を警護している。
レオニスが人混みをかき分け、三両目へと歩き出した。
私もその背中に張り付く。
「止まれ!」
車両の前に立っていた憲兵将校が、手を挙げて制止した。
「ここは特別管理区域だ。関係者以外は立ち入り禁止となっている」
「戦後処理局特務隊、レオニス将軍だ」
レオニスは身分証を提示せず、ただ名前だけを告げた。
その威圧感に、将校が一瞬ひるむ。
「し、しかし閣下。この車両の管理権限は首都防衛隊にあり……」
「車内に不審物ありとの通報を受けた」
レオニスは嘘をついた。
「爆発物の可能性がある。即時検査を行う」
「爆発物? そんな馬鹿な。出発前に厳重な検査を……」
「昨夜、橋が爆破されかけたのを知らないのか?」
レオニスが声を荒げずに言った。
「同じ手口だ。もしここで爆発すれば、貴官の責任問題では済まないぞ」
将校の顔から血の気が引く。
責任という言葉は、軍人にとって銃弾よりも恐ろしい。
「……わ、わかりました。直ちに開けます」
将校が合図を送ると、中の兵士が内側からロックを外す音がした。
重い鉄扉が、軋んだ音を立ててスライドする。
私はレオニスの後ろから、車内を覗き込んだ。
中は薄暗い。
ランプの頼りない明かりの下、四人の兵士が銃を構えて立っていた。
彼らの視線は、開いたドアではなく、部屋の隅に向けられている。
そこには、一人の女性が座っていた。
白い髪。
色素の抜けたような、月光を固めたような銀白の髪が、肩まで流れている。
彼女は簡素な木の椅子に腰掛け、手首に手錠をかけられていた。
服装は囚人服ではなく、上質な生地のドレスだが、あちこちが破れて汚れている。
彼女は顔を上げ、私たちを見た。
その瞳は、諦めでも恐怖でもなく、ただ退屈そうに濁っていた。
――ああ、やっと来たの。
――処刑人か、それとも新しい飼い主か。
――どちらでもいいわ。早く終わらせて。
彼女の心の声が、私の脳に直接響く。
乾いている。砂漠の砂のような声だ。
車内の兵士たちが、レオニスの姿を見て動揺した。
一人が、背後の腰に手を回す。銃を抜こうとしているのではなく、何かを隠そうとする動作だ。
「……検査だ」
レオニスは車内に足を踏み入れた。
狭い空間に、緊張が充満する。
「ご苦労。爆発物の反応があった場所は、そこだ」
レオニスは、一番奥に立っていた兵士を指差した。
「その腰のポーチ。中身を出せ」
指名された兵士が硬直する。
私はレオニスの背後から補足した。
「ポーチの中、起爆装置じゃないわね。もっと古典的な道具。……ピアノ線?」
兵士の肩が跳ねた。
思考が漏れ出す。
――なぜバレた。
――まだ取り出してもいないのに。
「動くな」
レオニスの手が、自身のホルスターに伸びていた。
抜いてはいない。だが、グリップに置かれた手の存在感が、車内の空気を支配する。
「武装解除だ。全員、銃を床に置け。ポーチの中身もだ」
兵士たちは顔を見合わせた。
彼らの目には、軍人の規律ではなく、暗殺者の焦りが浮かんでいる。
しかし、レオニスという圧倒的な実力者を前に、強行突破する度胸はないらしい。
カチャン、ゴトッ。
銃が床に置かれる音が続く。
最後に、奥の兵士がポーチから細いワイヤーの束を取り出し、投げ捨てた。
レオニスは部下を呼び、彼らを連行させた。
「事情聴取を行う。橋の爆破未遂犯との関連についてだ」
車内には、私とレオニス、そして白い髪の女性だけが残された。
彼女は手錠をかけられたまま、ゆっくりと拍手をした。
パチ、パチ、パチ。
乾いた音が響く。
「鮮やかなお手並みね」
彼女の声は、鈴を転がすように美しかったが、温度がなかった。
「でも、彼らを追い払ってどうするの? あなたが代わりに私を殺すの?」
レオニスは彼女の前に立った。
「俺は戦後処理局のレオニスだ。捕虜交換のリストに基づき、貴女の身柄を引き受ける」
「引き受ける? 聞こえのいい言葉ね」
彼女は首を傾げた。
「要するに、別の鳥籠に移されるだけでしょう?」
彼女の視線が、私のほうへ向いた。
借り物のスーツを着た、ちぐはぐな私を見て、彼女は微かに目を細めた。
「……あなた、聞こえているわね?」
彼女は唇を動かさずに言った。
いいえ、心の中で言ったのではない。実際に声に出したのだ。
「私の『諦め』が。うるさかったでしょう?」
私は驚かなかった。
この人は、自分の感情が漏れていることに自覚的だ。
あるいは、今までにも私のような人間に会ったことがあるのかもしれない。
「ええ。砂埃みたいな音がしてたわ」
私は正直に答えた。
「喉が渇きそうな声ね」
彼女は初めて、人間らしい表情――微かな苦笑――を見せた。
「水ならあるわよ。毒入りかもしれないけれど」
彼女は足元の水差しを顎で示した。
レオニスが手錠の鍵を取り出し、彼女の手首を解放した。
ガチャリと金具が外れる。
彼女は赤くなった手首をさすりながら、立ち上がった。
背が高い。私よりも、レオニスよりも少し低いくらいだ。
「行きましょうか、将軍様。そして、耳のいい道化師さん」
彼女は優雅にスカートの裾を払い、出口へと歩き出した。
「レッドカーペットが待っているわ。血で汚れる前に歩いておきたいの」




