第209話 高額な護衛契約
革のベルトから引き抜いた扇子の持ち手を握り直す。
木製の骨組みが指の関節に食い込み、硬い感触を手のひらに残す。
皇女の顔から血の気が引き、白粉の層が浮き上がって見えた。
彼女の肩が細かく震え、絹のドレスの生地が擦れる音が倉庫の空気を打つ。
「私が……捨て駒だと」
皇女の唇の端が歪み、声帯から絞り出された音が、積み上げられた木箱の隙間に吸い込まれる。
彼女の両手がドレスのひだを強く握り込む。
絹の繊維が引きつり、糸が僅かに切れる音が鳴った。
私は扇子を動かさず、コートのポケットから手帳を取り出した。
鉛筆の芯を白紙のページに押し当てる。
「命拾いしたわね」
私は鉛筆の軸を指で回した。
「倒れて意識を失えば、目論見通りに利用されていた。でも、あなたは今立っている。そして、あなたを舞台装置として使おうとした人間は、まだ外で次の台本を書き続けているはずよ」
皇女が顔を上げる。
顎の筋肉が硬直している。
「誰が……私を」
「それを調べるのが私の仕事よ。もちろん、タダではないけれど」
私は手帳のページを彼女の視界に入る位置まで持ち上げた。
「調査費用、それから後宮内での継続的な警護費用。請求先は皇女殿下の個人資産でよろしいかしら」
皇女の視線が手帳の罫線の上を滑る。
彼女の胸の奥から響く心音が、不規則な乱れから、強く重い打音へと変化していく。
ドレスを握る指から力が抜け、布が元の形に戻る。
「……出し抜きなさい」
皇女の喉が動く。
「私を侮った者を、全員私の前に引きずり出しなさい。費用は要求通りに払う」
私は鉛筆を動かし、ページに契約の成立を示す印を書き込んだ。
芯が紙を擦る音が、香料の匂いが充満する空間に響く。
その音に重なるように、倉庫の奥から別の音が聞こえた。
物資の搬入口に繋がる鉄の扉だ。
金属のカンヌキが外側から押し上げられ、重い摩擦音を立ててスライドする。
衛兵たちが長槍を構え、皇女の前に壁を作るように移動した。
鎧の金属板が打ち合う音が連鎖する。
扉が内側へ開き、外の灰色の光と冷たい風が流れ込んでくる。
逆光の中に、レオニスの長身のシルエットが浮かび上がった。
彼は革手袋をはめた手で扉の縁を押さえ、倉庫の中を観察する。
彼の革靴がコンクリートの床を踏みしめ、低い足音が響いた。
「外部からの男の立ち入りは禁じられているはずよ」
皇女が声を上げる。
レオニスは衛兵の構える槍の穂先を前にして、歩みを止めない。
彼は手に持っていた金属製の留め金を、近くの木箱の上に放り投げた。
留め金が木材にぶつかり、乾いた音を立てて転がる。
「搬入用の通用口に、施錠の形跡がない。蝶番のネジも緩められている」
彼はコートの襟を直し、私の横まで歩み寄る。
「外壁の巡回経路と、この扉の死角が完全に重なっている時間帯がある。毒の搬入ルートはここだ」
私は手帳を閉じ、ポケットにしまった。
「警備の穴の指摘と、現場検証の追加業務ね。これも請求書に乗せておくわ」
レオニスは私のドレスの裾に付着した埃へ視線を落とした。
「ガラスの割れる音は聞こえなかったが」
「扇子と銀の匙で足りたわ」
私は扇子を開き、顔の前にかざした。
「それに、新しいスポンサーの契約が取れたところよ。支払いの意思は充分にあるみたい」
皇女がレオニスと私を交互に見る。
衛兵たちが槍を下げきれず、皇女の指示を待って呼吸を潜めている。
皇女はレオニスの軍用コートから階級章が外されている肩の跡を見た。
「この後宮の警備網が、外部の者にこれほど容易く破られるとは」
「物理的な壁の高さと、警備の質は比例しない」
レオニスは周囲の木箱の配置を確認する。
「箱の積み方が不規則だ。視線を遮るための意図的な配置に見える」
彼は一番近くにある木箱の蓋に手をかけた。
釘の頭が浮き上がっている隙間に指を差し込み、力を込める。
木材が軋み、蓋が持ち上がる。
内部には細かい緩衝材の藁が詰められており、その間に色の異なる小さな袋が詰め込まれていた。
私は扇子を下ろし、木箱の縁に近づく。
藁の擦れる音の奥に、ガラスが触れ合う音を探す。
「香水の瓶ではないわね」
私は袋の一つを指でつつく。
袋の布地が凹み、中身が移動する。
レオニスが袋の口を縛っている紐を解く。
布を開くと、中には乾燥した植物の葉と、砕かれた樹皮が混ざり合った茶色い塊が入っていた。
「薬効成分の強い薬草だ。帝都の気候では育たない」
レオニスが葉の表面を指でこする。
「南の乾燥地帯から持ち込まれた品だな」
私は皇女の方を振り返る。
「皇族の私物として搬入される荷物は、中身の検めが甘くなるのね。この倉庫は、毒薬の受け渡し場所としてだけでなく、禁制品の保管庫としても使われている」
皇女の息を呑む音が、私の耳に届く。
彼女の視線が、高く積み上げられた木箱の山へ向けられた。
箱の奥、通路の暗がりから、微かな空気の動きが鼓膜を叩いた。
風の音ではない。
衣類が擦れ、靴底が床を滑る音がする。




