第208話 舞台装置
白紙のページを弾く高い音が、温室の空気を震わせた。
衛兵に腕を掴まれた女官が、膝から崩れ落ちて化粧板の床に額を擦り付ける。
床に散らばった金貨のすぐ横で、彼女の肩が激しく上下に揺れている。
「どこで受け取ったの」
私は手帳を閉じた。
「受け渡し場所と、依頼人の名前。素直に吐けば、取り立てのリストからは外してあげるわ」
「西の物資倉庫です」
女官が床に顔を押し付けたまま、掠れた声を絞り出す。
「本日の搬入品を整理していた時、香水の木箱の隙間にこの袋と、毒の小包が……相手の顔は見ていません」
私は床に落ちている布袋に目を向けた。
袋の口から、温室の植物とは異なる揮発性の高い匂いが漏れ出している。
私は手帳をコートのポケットに押し込んだ。
「次の現場が決まったわね」
皇女の方へ振り返る。
「移動の時間も時給計算に含まれるわ。案内してもらうわよ」
皇女が顎を引く。
衛兵が女官の腕を引き上げ、先導の列を作る。
私たちは温室のガラス扉を抜け、再び後宮の回廊へ出た。
窓の外の空は曇り、ガラス越しに差し込む光が床の木目を鈍く照らしている。
衛兵の金属鎧が擦れる音と、私のドレスの裾が床を掃く音が一定のリズムで連続する。
皇女は私の斜め後ろを無言で歩いていた。
回廊の突き当たりに、装飾のない厚い木製の扉が現れた。
衛兵が掛け金を外し、両手で扉を押し開ける。
乾燥した空気と、複数の香料が混ざり合った強い匂いが通路へ溢れ出した。
倉庫の中には、背丈を超える高さまで木枠の箱が積み上げられている。
私はドレスの裾を少し持ち上げ、箱の間の狭い通路へ足を踏み入れた。
壁際の棚に、ガラス製の小瓶が大量に並べられている。
輸入された香水の瓶だ。
その中のいくつかは箱から出され、蓋が開いた状態で放置されていた。
私は棚に近づき、蓋のない空の小瓶を手に取った。
ガラスの表面は冷たい。
周囲の衛兵の足音を意識から外し、手元のガラス瓶の表面へ聴覚の焦点を合わせる。
ガラスの壁面を伝って、過去の空気の振動が鼓膜を叩いた。
すり鉢の底で、硬い結晶を押し潰す音。
ゴリ、ゴリと粉末が細かく砕かれていく摩擦音。
続いて、瓶の口から粉末を流し込む微細な擦れ音。
男の低い声が重なる。
――致死量には届かせるな。
――倒れるだけでいい。騒ぎになれば目的は達せられる。
――南洋の使節の席に、残りの包みを置いておけ。
私は小瓶を棚に戻した。
ガラスの底が木板に当たる音が鳴る。
「南洋の大使に罪を被せるための追加料金を、請求書に乗せないといけないわね」
私は棚から背を向けた。
倉庫の入り口に立つ皇女が、顔をしかめて私を睨んでいる。
「残念なお知らせと、喜ばしいお知らせがあるわ」
私はドレスの埃を指先で払う。
「あなたの命は、最初から狙われていない」
皇女の眉間が狭まる。
「毒の量は、あなたが倒れる程度に精密に調整されていたわ」
私は棚の上の空瓶を顎で示した。
「目的は、あなたが倒れた後、南洋の使節に罪をなすりつけること。条約を破棄させるための自作自演の舞台装置として、あなたは利用されただけよ」
皇女の唇から血の気が引いていく。
彼女の胸の奥から、自尊心を傷つけられた怒りと混乱が入り混じった不規則な心音が響き始める。
私は扇子を革のベルトから引き抜き、持ち手を握り直した。




