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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第20話 借り物のスーツ

 テントの布を捲ると、熱気が顔を打った。

 中は明るい。天井から吊るされたランプが、敷かれたばかりの絨毯を照らし出している。

 丸眼鏡の外交官が、入ってきた私たちを見て悲鳴に近い声を上げた。


 「なっ……! なんだその格好は!」

 彼は書類を抱えたまま後ずさる。

 「ずぶ濡れじゃないか! それに、刚才の爆発音は……まさか、テロか? 敵襲か?」


 「工事用のガスボンベが破裂しただけだ」

 レオニスは濡れた帽子を脱ぎ、水滴を払った。

 表情は平然としている。

 「古い機材だった。作業員に怪我はない。火も消し止めた」


 「ガス……ボンベ?」

 外交官は狐につままれたような顔で、レオニスの軍服から滴る水を見た。

 「じゃあ、その水は?」

 「消火活動の余波だ。放水路の近くにいたものでな」


 嘘だ。

 だが、この男には真実よりも「安心できる嘘」の方が必要らしい。外交官はあからさまに安堵の息を吐き、肩の力を抜いた。

 「そ、そうか。事故なら報告書一枚で済む。……しかし、そのお嬢さんはどうするんだ。唇が紫色だぞ」


 私はコートの裾を絞った。冷たい水が床に水溜まりを作る。

 「着替えがあれば助かります。サイズは問いません」

 「予備の礼服ならあるが……男物だぞ」

 「濡れた雑巾よりマシです」

 私が答えると、外交官は奥のトランクを指差した。


 *


 パーティションの裏で、私は濡れた服を脱ぎ捨てた。

 肌に張り付いた布を剥がすと、外気が直接皮膚を刺す。

 用意されたのは、灰色のウールのスーツだった。

 書記官用だろうか。仕立てはいいが、私には明らかに大きすぎる。

 袖を通すと、手が完全に隠れた。ズボンの裾は三回折り返してもまだ床を擦る。


 「……案山子かかしね」

 私はベルトを限界まで締め上げ、パーティションから出た。


 レオニスは部屋の中央にあるストーブの前で、拳銃を分解していた。

 濡れた金属部品を布で拭い、オイルを差している。

 私が近づくと、彼は手を止めずにこちらを一瞥した。


 「似合っているぞ。新米の道化師みたいで」

 「どうも。ボールに乗る練習でもしておこうかしら」

 私はストーブのそばに椅子を引き寄せ、濡れた髪をタオルで拭いた。

 外交官は「他国の代表団に事故の釈明をしてくる」と言い残して出て行ったらしい。

 テントには私たち二人と、パチパチと燃える薪の音だけが残された。


 レオニスは拭き終わったスライドを組み込み、ガチャリと動作を確認した。

 そして、ポケットから例の布切れを取り出し、テーブルの上に置いた。

 濡れた黒いニット地。

 そこに縫い付けられた、二匹の蛇の刺繍。


 「……乾いたか」

 レオニスが顎で促す。

 「まだ湿ってるわ。でも、声は聞こえる」


 私はタオルを首にかけ、その布切れに手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、ザラリとした感触と共に、所有者の執念が流れ込んでくる。


 ――失敗した。

 ――橋は落ちない。

 ――プランBに移行する。


 「……プランBだって」

 私は顔をしかめた。

 「橋を落とせなかった場合の予備計画があるみたい」


 「内容は」

 レオニスが身を乗り出す。


 私は布切れを強く握った。

 爆死した男の、最後の思考の断片。

 死の瞬間の恐怖よりも強く焼き付いているのは、任務への強迫観念だ。


 ――列車だ。

 ――明朝、到着する捕虜輸送列車。

 ――『荷物』はそこに乗っている。


 「列車を狙ってる」

 私は目を開けた。

 「明日の朝に着く、捕虜を乗せた列車。そこに彼らのターゲットがいる」


 レオニスは腕を組んだ。

 「捕虜交換のリストにある将校か? それとも政治犯か」


 「わからない。でも、男は心の中でこう繰り返してる」

 私は残響をそのまま口にした。

 「『三両目。窓のない貨車。白い髪の女』」


 レオニスの眉がピクリと動いた。

 「……白い髪?」


 「ええ。殺すな、確保しろって命令されてる。橋を落として混乱に乗じて奪うつもりだったけど、失敗したから列車を直接襲う気かもしれない」


 レオニスは立ち上がり、壁に掛けられた地図の前に移動した。

 指で線路のルートを辿る。

 「捕虜輸送列車は、夜明けと共に国境駅に入る。警備は厳重だ。外部から襲撃するのは難しい」


 「内部なら?」

 私が聞くと、彼は振り返った。

 「内部?」

 「蛇の記章。あれ、やっぱり軍の支給品なんでしょ? だったら、列車の中にも仲間がいるんじゃない?」


 レオニスは沈黙した。

 彼もその可能性を考えていたのだろう。

 「……『双蛇そうじゃの紋章』は、旧王室直属の影の衛兵隊が使っていたものだ。先の戦争で解体されたはずだが、残党が地下に潜ったという噂はある」


 「亡霊ってわけね」

 私はダブダブの袖をまくり上げた。

 「亡霊なら、壁をすり抜けて列車に乗るくらい簡単でしょうね」


 レオニスは地図から目を離し、私を見た。

 「レティ。お前の耳で、列車の乗客を選別できるか」

 「距離によるわ。汽笛が聞こえるくらい近くなら」

 「なら、明日は早起きだ」


 彼は上着を羽織り、ホルスターを吊った。

 「俺は警備配置の見直しを指示してくる。お前はここで寝ておけ」


 「一人? また爆弾魔が来たらどうするの」

 「ここは外交官のテントだ。国際問題になりたくなければ、手出しはしないはずだ」


 彼は入り口に向かい、ふと足を止めた。

 テーブルの上の飴の缶を指差す。

 「それ、全部食っていいぞ」


 「太っ腹ね。虫歯になったら治療費も請求するわよ」

 私は缶を引き寄せた。

 レオニスは小さく鼻を鳴らし、夜の霧の中へと出て行った。


 残されたテントの中は、急に広くなった気がした。

 私は椅子の上で膝を抱えた。

 ストーブの熱が、借り物のスーツを通して伝わってくる。

 

 『白い髪の女』。

 そして以前聞いた、『アナスタシア』という名前。

 点と点が、嫌な形で繋がり始めている気がする。


 私は飴を一つ口に放り込み、甘さで思考を塗り潰そうとした。

 だが、口の中に広がったのは、なぜか鉄錆のような味がした。

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